自己啓発支援センター(R)
Self-Development Support Center



☆ライフプランから始める本気の自己啓発を支援します☆


所長 釼地邦秀
Kenchi, Kunihide



サイトの利用案内
(1) このサイトは各自の責任において御利用下さい。当方は一切の責任を負いません。
(2) このサイトの利用にあたっては著作権法などの関連法規を遵守し て下さい。
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開設(2014年6月22日)

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自己啓発百科>自己啓発の事例紹介

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【はじめに】

このページでは事務職の事例・技術職の事例・資格取得の事例・専門職を目指した事例・独立を果たした事例など、自己啓発のさまざまな具体例を紹介します。自己啓発目標を見つけるヒントにもなるでしょう。

おもに新聞や雑誌に掲載された例になると思いますが、媒体の種類にこだわらず数多くの具体例を紹介していきます。自己啓発を進めていくうえで参考になりそうな例を紹介するのが目的ですので事例の新旧にもこだわりません。新旧取り混ぜて紹介していきます。異性の例も参考にして下さい

あなたの取り組み意欲を高める切っ掛けが見つかることを願っています☆


【付記】

(1)
掲載は「順不同」です。引用・参考資料の発行日順にもなっておりません。

(2)
事例の検索に際しては、IEの「ページ内検索機能」なども活用して下さい。

(3)
可能であれば、最初に「自己啓発の意味」と「自己啓発事例の活用法」をお読み下さい
  ■「自己啓発の意味」▶[本文]へ
  ■「自己啓発事例の活用法」▶[本文]へ

(4)
内容については、あなた自身の判断で取捨選択のうえ活用してください。当方は一切の責任を負いません。

(5)
引き続き増補を予定しています。追加分は上部に配置していきます。

(6)
会社主導の自己啓発(目標管理における自己啓発目標)については下記を参照してください。


本ページ>047:目標管理や会社主導の自己啓発において「目標を見つけるヒント」 ▶[本文]へ


自己啓発支援センター>自己啓発に役立つシート集>021: 振り返りとフィードバックの方法_(ガイドシート) ▶[本文]へ


釼地邦秀 『自己啓発の事例と自己啓発の進め方』(Kindle 版)。

 第4章 会社主導の自己啓発にどう取り組むか

 第1節 目標の見つけ方

 第2節 実行計画(表)の作り方_「決意表明」作成のポイント

 第3節 実行のポイント(復習)

 第4節 振り返りとフィードバック

 第5節 会社主導の自己啓発と私的自己啓発の統合


hyoushi_jpeg.jpg[▶内容紹介]へ





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【目次】


068: 79歳の時に宅建(宅地建物取引士)の試験に合格した女性 ▶[本文]へ

067: 74歳で司法書士試験に合格 ▶[本文]へ

066: 65歳で司法試験合格 ▶[本文]へ

065: 60歳で医師になった人 ▶[本文]へ

064: 36歳で念願の警察官に ▶[本文]へ

063: 13年かかって教員免許を取得した母親_就職も内定 ▶[本文]へ

062: 帝国ホテル取締役総料理長であった故・村上信夫さんの自己啓発 ▶[本文]へ

061: 51歳で司法試験に合格した植田統さん ▶[本文]へ

060: 元ヤンキーがUCバークレーに合格 ▶[本文]へ

059: 日清食品創業者・安藤百福 ▶[本文]へ

058: 三浦雄一郎さんの挑戦 ▶[本文]へ

057: 鎌田實さんの自己啓発 ▶[本文]へ

056: 目標を持つことは素晴らしい_67歳の女性社長 ▶[本文]へ

055: OLからイラストレーターになった押金美和さん ▶[本文]へ

054: 高校・大学時代を独学で過ごし、東大教授になった柳川範之さん ▶[本文]へ

053: 1000冊読めば1000の人生経験_ファミリーマート会長・上田準二さん ▶[本文]へ

052: セルフ・コントロールが巧みな女性経営者 ▶[本文]へ

051: カルビー会長兼CEO・松本晃氏の自己啓発 ▶[本文]へ

050: 堀紘一さんの「覚える技術」 ▶[本文]へ

049: 人と本と旅(現場)から学ぶ ▶[本文]へ

048: 聴覚障害者(田村聡さん)初のエベレスト登頂 ▶[本文]へ

047: 目標管理や会社主導の自己啓発において「目標を見つけるヒント」 ▶[本文]へ

046: フランスで91歳の女性が博士号を取得 ▶[本文]へ

045: 年間100冊の読書を10年間続けた(日本交通社長)知識賢治さん ▶[本文]へ

044: いくつになっても自己啓発を続ける田部井淳子さん ▶[本文]へ

043: 40代で英語をマスターした男性課長 ▶[本文]へ

042: 40歳過ぎてから「自分らしく生きたい」と新たな道を選んだ女性 ▶[本文]へ

041: 13人の女性達が立てた今年の目標  ▶[本文]へ

040: 会社に貢献しながら自分のライフプランを実現した井上富雄氏 ▶[本文]へ

039: 海外で活躍する女性達 ▶[本文]へ

038: 葛西紀明 ▶[本文]へ

037: 人生を変えた転機(企業家への道を選んだ女性) ▶[本文]へ

036: スポーツ界から日体大へ入学した男性・女性 ▶[本文]へ

035: 強い思いで道を切り開き、旅客機のパイロットになった女性 ▶[本文]へ

034: 大学(課程)卒業後の第二の人生に夢を膨らませる67歳の男性 ▶[本文]へ

033: 10年先を意識した自己啓発(女性の事例) ▶[本文]へ

032: 97歳で放送大学を卒業した男性 ▶[本文]へ

031: 心機一転、公私ともに前向きに取り組み始めた女性 ▶[本文]へ

030: 日本航空社長・植木義晴氏の自己啓発歴 ▶[本文]へ

029: 萩本欽一さんが大学に入学 ▶[本文]へ

028: スーパーの社員から警察官になり、警視庁捜査1課長に就任した男性 ▶[本文]へ

027: 本田宗一郎の夢 ▶[本文]へ

026: 社会保険労務士の資格をとって転職に成功した女性 ▶[本文]へ

025: 杉原輝雄はどのようにしてプロゴルファーになったか ▶[本文]へ

024: 日商簿記3級の不合格をバネにして2級に合格した女性経理担当者 ▶[本文]へ

023: 資格を活かして活躍の場を広げた女性 ▶[本文]へ

022: 目標を毎月手帳に書いて自己動機づけをしている女性 ▶[本文]へ

021: 仕事の中でも自己啓発は出来る(男性の事例) ▶[本文]へ

020: 独学で建築を学んだ安藤忠雄 ▶[本文]へ

019: 仕事の中で自己啓発をして独立自営を果たした女性 ▶[本文]へ

018: ボロボロの英和辞書 ~銀行マンから証券会社の社長になった男性~ ▶[本文]へ

017: 全盲の男性弁護士 ▶[本文]へ

016: 会社勤めに耐え切れなくなって木工作家に転身した女性 ▶[本文]へ

015: 27歳で介護福祉士の資格を取得して活躍中の女性 ▶[本文]へ

014: 58歳で総合商社の社員から大学のキャリアセンターに転職、そして特任講師になった男性 ▶[本文]へ

013: 人生の計画を立てて、残り時間の充実を意識する(男性の事例) ▶[本文]へ

012: 放送大学を活用した人達(男性および女性の事例) ▶[本文]へ

011: 結婚後に出産で退社、しかし自己啓発で再出発を果たした女性 ▶[本文]へ

010: サラリーマンから大学教授へ(男性の事例) ▶[本文]へ

009: 勉強会に参加する(男性の事例) ▶[本文]へ

008: 100冊の本から100通りの人生を体験する(男性の事例) ▶[本文]へ

007: 定年前から準備した、定年後の社会貢献(男性の事例) ▶[本文]へ

006: 10年で仕事に関した5つの資格を取得した男性 ▶[本文]へ

005: 欠番_掲載記事はありません。

004: 78歳の全盲男性が博士号 ▶[本文]へ

003: 仕事と大学院の受験勉強を両立させた人達(男性および女性の事例) ▶[本文]へ

002: やりたい仕事で起業を果たした女性 ▶[本文]へ

001: 3つの資格を取得して、やりたい仕事に就いた女性 ▶[本文]へ



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068: 79歳の時に宅建(宅地建物取引士)の試験に合格した女性

今回紹介するのは79歳の時に宅建の試験に合格した和田京子さんです。和田さんは現在89歳。不動産業を営む経営者です。

和田さんは、77歳の時、10年間に亘る老老介護のすえ、ご主人を亡くされ、すっかり気力を失ってしまったそうです。

そんな時、お孫さんに、「何か好きなことを勉強したら」と勧められ、自分自身への問いかけを始めました。その結果、浮かんできたのが「宅建」だったのです。

和田さんには7回の住宅購入経験がありましたが、そのいずれも、なんらかの欠陥のある住宅でした。また、昔から、自分が買えないような家の間取り図を描いて楽しむという趣味があり、それらが「宅建」に結びついたのです。

かくして、東京・水道橋にある専門学校に入学。「宅建命」というくらいに勉強したそうです。

朝目覚めたら「朝練」として問題集に取り組み、授業開始の何時間も前から学校に行き予習、授業のあとはまっすぐに帰宅し、その日に学んだことを復習しました。

結果は一発合格。

現在は和田京子不動産代表取締役社長。24時間営業・年中無休・物件購入者からの手数料無料という営業方針を掲げ、購入者に寄り添った事業を継続しています。


【引用・参考資料】

PRESIDENT 2019/08/16 (p.19).


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067: 74歳で司法書士試験に合格

今回紹介するのは74歳で司法書士試験に合格した伊藤忠男さんです。

現在、伊藤さんはコンピュータソフト会社を営んでいますが、過去の体験が生涯にわたる自己啓発の源になっていると言います。

島根で一番の難関高であった工業高校を(級長を務めながら)卒業した伊藤さんでしたが、家庭の経済的事情で大学に進学できなかったのです。しかも、ある日、小・中時代の同級生と駅でばったり会い、彼が東京大学に進学することを知りました。その時の悔しさと惨めさが現在にまで続く自己啓発意欲の根源だと言います。

かくして、52歳で宅建に合格、66歳で行政書士、74歳で司法書士の試験に合格しました。司法書士の試験は8回目の受験で合格したそうです。

現在の目標はプロボノ。プロボノとは専門的な知識や技術を社会に役立てるボランティア活動のことです。

そのために、税務の勉強も始めました。


【引用・参考資料】

PRESIDENT 2019/08/16 (p.18).


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066: 65歳で司法試験合格

吉村哲夫さんは2014年に65歳で司法試験に合格しました。その年の最高齢合格者だったそうです。現在は故郷である福岡市内の弁護士事務所で働いています。

九州大学を卒業し福岡市の職員になり東区長まで務めた吉村さんが受験を思い立ったのは58歳の時でした。2年後(2010年)に迎える定年後の人生を、余生としてではなく、一生働ける弁護士として歩んで行きたいと決意したのです。

そして、働きながら京都大学法科大学院への入学準備を始め、2011年に合格しました。入学後の勉強は想像していた以上に大変なものでしたが、懸命の努力を重ね、2014年(65歳で)司法試験に合格したのです。

人の心に寄り添うことのできる、いい町弁になることを最終目標にしている吉村さんは次のように語っています。

「これから資格試験を目指す方にお伝えしたいことは、資格をとることを最終目標にしてはいけないということです。本当の目標は資格をとった後にあります。そこが最終目標にならなければいけないと思うのです。どうか中間目標と最終目標を取り違えないようにしてください」(要旨)。



【引用・参考資料】

PRESIDENT 2019/08/16 (pp.16-17).


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065: 60歳で医師になった人

今回紹介するの60歳で医師になった水野隆史さんの事例です。

✤     ✤     ✤

水野さんは1955年生まれ。東京大学を卒業後、農林水産省に入り、2009年に54歳で退官しました。そして、金沢大学医学部に入学したのです。2015年からは十和田市立中央病院で内科医として勤務しています。

✤     ✤     ✤


水野さんが金沢大学医学部の編入試験に合格したのは2009年(54歳)の時でした。国家試験に合格したのは2015年。そのご、研修医を経て現職に就きました。

現役時代から激務と両立させながら受験勉強をしていたそうです。目指していたのは「直接、目の前の人を救える仕事」、すなわち「医師」でした。

✤     ✤     ✤

以下には水野さんの勉強方法を紹介しておきます。


受験勉強は50歳を過ぎるころから始めた(勉強開始から編入試験の合格まで5年ほどかかったことになる)。


生活リズムを朝方に変えた(23時に就床/3時~4時:その日の勉強範囲を決め、参考書の中から覚えるべき事項を選び出しテキスト化、さらに、それらを理解しながらボイスレコーダーに吹き込む/4時~5時:歩いて1時間ほどの公園まで、ボイスレコーダーの音声を聞きながら散歩/5時~6時:公園のベンチで参考書を開き、明日のための勉強/6時~7時:ボイスレコーダーの音声を2倍速で聞きながら自宅へ戻る/そして朝食および出勤の用意/そのあとに、10分から30分の仮眠をし、頭がスッキリした状態で出勤した)


分割睡眠法の導入。日中、ところどころで15分くらいの睡眠をとるようにした。また、昼の休憩時間にも愛妻弁当をそそくさと食べて15分くらいの睡眠をとるようにした。


入学後は「暗記ノート(商品名:MIDORI)」と「消せるボールペン」を活用しながら<ひたすら>勉強した。



【付記】

私がこの事例から学んだことを(参考までに)記しておきます。


強烈な目標意識は、さまざまな困難を乗り越える大きなエネルギーとなる。自分はそのような目標を持っているだろうか。


自分と自分が置かれた状況に対応した勉強法を工夫することが大切。人さまの勉強法はそのための<参考>という位置づけになる。


事例に感心してお終いではなく、自分自身の人生を再確認する機会にしたい。「目標・計画・実行」が大切だと思う。



【引用・参考資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2019年8月16日号)  pp. 14-15.

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064: 36歳で念願の警察官に

紹介するのは36歳で念願の警察官になった児矢野竜大さんの事例です。

✤     ✤     ✤

児矢野さんは埼玉県の出身。テレビの密着番組を見て警察官に憧れを抱くようになり、バスの運転手などをしながら埼玉県警の採用試験に何度も挑戦していました。しかし、ついに受験資格年齢を超え、警察官になるという夢は消えてしまったのです。

ところが、神奈川県警が2018年度以降の受験資格年齢を従来の30歳から35歳に引き上げました。このことを知った児矢野さんは「これが最後のチャンス」とばかり、迷わずに受験。家族の力強い後押しもあったそうです。

かくして、昨春実施の採用試験を35歳で突破。学生時代から憧れて何度も採用試験に挑戦してきた警察官になることができたのでした。

✤     ✤     ✤


その後は妻と幼い娘を埼玉に残し、神奈川県の警察学校に入校。一回り以上若い同期生と寝食を共にしながら警察官としての訓練を積み重ね、念願の警察官になったのです。

初めての配属先は川崎大師(平間寺)の門前町を管轄する川崎署大師駅前交番。先輩警察官の指導を受けながらも緊張の初勤務を無事に終えました。

現在の児矢野さんは公舎で妻・娘との3人暮らし。「川崎大師のお膝元で地域の人に親しまれ、娘に誇れるような安全な町づくりに貢献したい」と決意を新たにしています。



【引用・参考資料】

(1)
神奈川新聞(カナロコ)_19/08/13

(2)
自己啓発支援センター>自己啓発の資料紹介>005:『人間は自分が考えているような人間になる !! 』も参照してください。▶[本文]へ


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063: 13年かかって教員免許を取得した母親_就職も内定

今回紹介するのは、株式会社ヤッホーブルーイング・代表取締役社長・井手直行さんの妻、ゆうこさんの自己啓発歴です。

ゆうこさんは大学を卒業してピッキオで働きながら、教員免許を取るためにずっと通信教育を受けていたのです。

夫の直行さんは次のように語っています。

「働きながらなので毎年少しずつしか進まないし、1・2年くらい子どもができてやれなかったときもあったので、『やらないんだったらやめれば?』って言ったら、すごい怒って(笑)。『いや、私やる!』って。そうか、じゃあ好きならやればいいや……、と思っていました」

そして13年後、ゆうこさんは教員免許を手にしたのです。

私(釼地)は「工夫と努力は幸運を呼ぶ確率を高める」という「杖ことば」を持っていますが、ゆうこさんにも、その幸運が訪れました。

ゆうこさんが免許を取ったタイミングでちょうど近所に「軽井沢風越学園」という、元楽天の副社長だった本城慎之介さんが創立者の学校が2020年の4月に開校するという情報に巡り会ったのです。しかも、先生を募集してるとのこと。さっそく応募したら、採用されたのです。

ゆうこさんは次のように振り返っています。

「最初は免許をとる、それを勉強することで、もっと子どもの発達を理解できるのかな、そうすることでもっと効果的に自然のことを伝えたり感じたりできるのかな、と思って、やり始めたんですけど、取ってみたら、ちょうど軽井沢風越学園の教育方針に私の共感するものが多かったので、これは受けてみよう! と思って挑戦しました」。

また、夫の直行さんは次のように述べています。

「仕事しながら、3人の子育てもしながらは大変ですよ。それが結果的には彼女の人生を大きく左右する決断になった。これはすごいなって。参りました、という感じですね」。


(プロフィール)


井手ゆうこ:
大阪府出身。星野リゾートの一事業、エコツアーやツキノワグマの保護管理を行う「ピッキオ」のスタッフを経て、現在は「森のようちえん ぴっぴ」にて幼児教育の勉強中。2020年より軽井沢で新たに開校する「軽井沢風越学園」の教員になることが決まっている


井手直行:
株式会社ヤッホーブルーイング・代表取締役社長。1967生まれ。福岡県出身。国立久留米高専・電気工学科卒業。大手電気機器メーカーにエンジニアとして入社。広告代理店などを経て、1997年ヤッホーブルーイング創業時に営業担当として入社。2004年楽天市場担当としてネット業務を推進。看板ビール『よなよなエール』を武器に業績をⅤ字回復させた。全 国200社以上あるクラフトビールメーカーの中でシェアトップ。12年連続増収増益。2008年よ り現職。著書に、『ぷしゅ よなよなエールがお世話になります』(東洋経済新報社)。


【引用・参考資料】

HP:ホウドウキョク>夫婦対談_(2017/11/29)


【付記】

私の杖ことば:「工夫と努力は幸運を呼ぶ確率を高める」 ▶[本文へ]




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062: 帝国ホテル取締役総料理長であった故・村上信夫さんの自己啓発

帝国ホテル取締役総料理長であった故・村上信夫さんの自己啓発について、その一端を紹介します。

村上さんは1921年に小さな食堂を営んでいた両親の長男として神田で生まれましたが、さまざまな事情で家運は衰え、1932年(尋常小学校5年生の時)に結核で両親を亡くしました。そして、6年生の時、知り合いの人の口利きで浅草にあった「ブラジルコーヒー」に住み込みの小僧として入ったのです。

少し脇道にそれますが……、当時もらえなかった卒業証書は、1988年にNHKの番組で母校の生徒達にカレー作りを教えた際に(ごほうびとして)もらうことができました。ただし、日付けは収録のあった年月日となっていたので、村上さんはその脇に鉛筆で昭和9年3月24日と記したとのことです。

さて、話を元に戻します。

ブラジルコーヒーでの仕事場はカステラ工場、朝4時に起床して工場に行き、石釜の火入れや原材料の下ごしらえなどをしました。そのご、先輩達が本格的な作業を開始すると、次から次へと雑用が湧いてきて目が回るほどの忙しさになります。1日の仕事が終わるのは夜の9時か10時でした。しかし、一人前になりたいという気持ちが強かったので、仕事を辛いと思ったことはありませんでした。

やがて、少しずつ料理作りを手伝うようになり、3年間がアッという間に過ぎ、15歳になっていましたが、親切だった料理長の原山さんに励まされブラジルコーヒを出ることにしたのです。「コックを目指しているなら、ここにいたら駄目だ」というのが原山さんの助言でした。村上さんは原山さんの骨折りで帝国ホテルに願書を出すことができましたが、応募者が多く、返事が来るのは何時になるか見当もつきません。ときどき庶務に挨拶にいってもなかなか埒があきません。そこで、いくつものレストランで武者修行を重ねながら返事を待つことにしたのです。

かくして、レストランを転々としながら武者修行を重ねているうち、有楽町の「リッツ」に推薦してもらう機会を得ました。ところが店の経営が傾き帝国ホテルに買い取られてしまったのです。しかし、従業員も一緒でした。彼は「まるで、ひょうたんから駒だった」と回顧しています。18歳になっており西洋料理はひととおり身につけていたという自負があったものの「洗い場」からの再スタートでした。

そして数年後、いろいろな調理場を回りながら腕を磨いてきた村上さんに「フランス語」の勉強が必要になってきたのです。彼は尋常小学校しか出ていません。漢字はほとんど書けず、横文字は全くお手上げでした。そこで、一念発起してしてフランス語を習い始めました。アテネフランセで学んだあと、コックを対象とした新橋のフランス語教室に通い、文法や発音の基礎から学びました。「一日の激務を終え、眠いのをこらえて頑張り続けた」と言います。週に3回通ったそうです。勉強時間は終電までの時間帯でした。「若い頃の必死の勉強は身につく。そして、まだまだ実力は伴わなかったものの、西洋料理の本場、フランスの言葉を懸命に学んだという自信がついたのも大きかった」、村上さんはこう振り返っています。

やがて、戦争が始まり、陸軍に入隊。上官からは「漢字を勉強しろ」と言われる始末でした。そこで、辞書を購入、仲間や上官に添削してもらいながら(寸暇を惜しんで)漢字を覚え、文章の書き方を習得していったそうです。その時の辞書は今でも手許にあるそうですが、前線にも携行していたので負傷した時の血痕が残っていると言います。

さて、村上さんの自己啓発についてはまだまだ紹介したいことがたくさんありますが、もう一つだけ紹介してこの項を閉じることにします。

「コック人生は幸運の連続だった。人にも恵まれた。しかし、それは準備し、努力した結果でもある。新館料理長になって数年後から38年間、帰宅してから1日1時間、料理の勉強を欠かさないできた。80歳をこえても、練って待つ夢があるのは幸せだと思う」(要旨)。


【引用・参考資料】

村上信夫 『帝国ホテル 厨房物語』 日本経済新聞社 2004年。


【付記】

村上さんは2005年8月2日に千葉県松戸市小金原の自宅にて心不全で亡くなりました。享年84でした。


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061: 51歳で司法試験に合格した植田統さん

東京大学法学部を卒業した植田統(うえだおさむ)さんは東京銀行に就職しましたが、そのご何回も転職を重ね、現在は青山法律事務所の代表を務めています。

今回は、その植田さんの勉強法や独立開業戦略の要旨を紹介します。

司法試験の受験を決意した当時、植田さんは法律データベース会社:レクシスネクシス・ジャパン日本支社長の職に就いていましたが、その頃はロースクール修了者の70%が新司法試験に受かると喧伝されていました。そこで、植田さんは働きながら勉強ができる夜間ロースクールへの入学を決意したのです。日中は従来どおりの仕事をしていたので「社内には受験準備をしていることに気づく人はいなかった」と言います。かくして、通勤電車では判例集を読み、出社前には職場近くの喫茶店で1時間勉強。さらに、2年目は土曜日に予備校に通いました。そして、2年コースのロースクールを卒業した年、晴れて一発合格を勝ち得たのです。

その後は司法研修生を経て54歳で独立したのですが、「過去の人脈に頼ることをせず、中小企業や個人を対象にして、一から開拓する」という戦略をとりました。具体的には商工会議所の交流会を中核にしながら新しい人脈を築いていったのです。

植田さんは、「資格とったあと、仕事として立ち上げられるかどうかが本当の勝負どころ。仕事にならなければ、資格なんて宝の持ち腐れです」と締めくくっています。



【引用・参照資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2018年7月2日号)  pp. 84-85.



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060: 元ヤンキーがUCバークレーに合格

鈴木琢也さんは1986年、神奈川県川崎市の生まれです。中学1年でグレ始め、喧嘩や窃盗で警察のご厄介になったことも数知れず、偏差値30台の高校入学後は不良グループに入っていました。この事例は、そんな鈴木さんの「その後」です

ヤンキー生活を送っていた鈴木さんは高校を卒業後、とび職に就きましたが父親の姿を見て大変身したのです。

その場所はハワイ。外資系生保の営業職であったお父さんが業績をあげ、ハワイで開かれる表彰式に招かれました。同行した琢也さんは周囲の人達から尊敬される父親を見て両親の苦労と努力に胸を打たれたのです。

そして、「勉強し直そう!」と決意しました。

ところが、漢字を知らないので、新聞も読めない、辞書を買っても使いこなせないという状態です。思いついた対策は電子辞書の部首検索、それでなんとか新聞や本を読めるようになりました。

そのあとは、とび職を辞めて専門学校で漢字と四則計算を勉強し直し、情報処理の資格を取ってIT企業に再就職したのです。

そしてなお、先を目指しました。それは「留学」です。せっかくだから”てっぺん”を目指そうと、UCバークレー校を最終目標にしたのです。お父さんは呆れながらも資金援助をしてくれました。

米国留学にはTOEFL100点以上が必要、「中学レベルの英語からやり直した」と言います。

まずはカリフォルニアの語学学校に入学。とにかく、必死で単語を覚え、例文を読みまくり、なんとか第一関門のコミカレ(2年制大学)への編入を果たしました。1日14時間以上を勉強に充てたのです。入学は23歳の時でした。

その後も努力を重ね、26歳の時、ついにカリフォルニア大学バークレー校に合格したのです。鈴木さんは「人生で一番嬉しかった瞬間」、と振り返っています。現在の鈴木さんはグロービス経営大学院スチューデントオフィス・アソシエイト。自分の体験を活かしながら仕事に取り組んでいます。



【引用・参照資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2018年7月2日号)  pp. 68-69.



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059: 日清食品創業者・安藤百福

「七転び八起き」の自己啓発を重ねた安藤百福氏の紹介です(以下、敬称略)。

「チキンラーメン」や「カップヌードル」を知らない人はいないと思いますが、それらを開発したのが安藤百福(あんどう ももふく)です。さまざまな失敗や不運を乗り越えて、日清食品という大企業の礎を築きました。

安藤は1910年に台湾で生まれました。しかし、幼い頃に両親を亡くし、呉服商を営んでいた祖父母に育てられたのです。小学校卒業と同時に祖父の仕事を手伝いながら成長しました。図書館司書をしていた時期もありましたが事業を興したいという野心に駆られ、22歳の時に台北市にメリヤス会社を設立。大阪に問屋を設け、メリヤス製品を仕入れて販売、大当たりしました。さらには、プレハブ住宅、機材販売、エンジン部品の製造などを手がけて一応の成功を収めていたのです。しかし、戦災によりそれらの事業はすべて灰燼に帰してしまいます。

そして戦後。安藤は製塩業や栄養食品の開発に取り組んでいましたが、46歳の時に「ラーメンづくり」に取りかかったのです。冬のさなかに焦土と化した大阪・梅田の闇市でラーメンの屋台に並ぶ長い行列を見てのことでした。

しかし、理事長を務めていた信用組合が倒産し、無一文になっていた安藤は従業員も雇えず事業資金にも事欠いていました。昔なじみの大工に頼んで庭に10平方メートルほどの小屋を作り、中古の製麺機・中華鍋を購入、なんとか原材料を手配して開発を始めたのです。麺についてはまったくの素人、作っては捨て、作っては捨ての連続でした。朝は5時起床、小屋にこもり夜中の1時、2時になるまで開発に没頭したそうです。平均睡眠時間4時間という生活を丸1年、1日の休みも無く続けたのです。

そんな生活の中で、ある時、妻が天ぷらを揚げているのを見ていて、「麺を油で揚げる」という発想を得たのです。そして、製法特許「瞬間湯熱乾燥法」が誕生しました。安藤が48歳の時でした。説明を聞けば簡単なことのように思えますが、不眠不休の開発努力が無ければ、心身共に集中していなければ、この着想は生まれなかったと思います。

安藤は次のように述懐しています。

「振り返ると、私の人生は波乱の連続だった。両親の顔も知らず、独立独歩で生きてきた。数々の事業に手を染めたが、まさに七転び八起き、浮き沈みの大きい人生だった。成功の喜びに浸る間もなく、何度も失意の底に突き落とされた。しかし、そうした苦しい経験が、いざという時に常識を超える力を発揮させてくれた」。



【付記】

(1) 安藤百福の命日

2007年1月5日、創業者の安藤百福は96歳の天寿を全うしました。「ニューヨーク・タイムズ」紙は1月9日に追悼の社説を掲載。 『ミスターヌードルに感謝』という見出しを立て、安藤百福に最大級の賛辞を贈りました。

(2) 会社概要

・商号 日清食品ホールディングス株式会社
・設立年月 1948年9月4日
・資本金 251億2200万円
・代表者 代表取締役社長・CEO 安藤 宏基
・従業員数 12,102名 (連結)
・売上高 5164億円 (連結・2018年3月期通期)
・経常利益 405億8800万円 (連結・2018年3月期通期)
・当期純利益 291億400万円 (連結・2018年3月期通期)


【引用・参照資料】

(1)
吉田勝昭 『人生を「私の履歴書」から学ぶ』 PHPエディターズ・グループ 2017年、pp.40-44。

(2)
日清食品ホールディングス株式会社HP:(2018/05/18)。



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058: 三浦雄一郎さんの挑戦

今回は三浦雄一郎さんの挑戦的な人生を紹介します。



(1) 三浦さんの履歴:

はじめは三浦さんの略歴です。


◇氏名:
三浦雄一郎(みうら・ゆういちろう)


◇現職:
プロスキーヤー、クラーク記念国際高等学校校長、㈱ミウラ・ドルフィンズ代表取締役、他。


◇履歴:
1932年10月12日、青森市に生まれる。1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172.084キロの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ、その記録映画 [THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST] はアカデミー賞を受賞。1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年次男(豪太)とともにエベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヶ月)樹立。2008年、75歳2度目、2013年80歳にて3度目のエベレスト登頂〔世界最高年齢登頂記録更新〕を果たしました。



(2) 60歳からの挑戦:

三浦さんにも挫折の経験はあります。たとえば、(旧制)中学受験の失敗やアマチュア資格の停止などです。しかし、それらを乗り越え、多くの実績を残しつつ60代を迎えました。60代になると生活も安定し、まさに悠々自適の生活をおくっていたのです。ほとんど引退気分でした。体力はすっかり落ちており、血圧も190ー95。医師からは高脂血症と言われていました。

しかし、モンブランを滑ると言ってトレーニングを重ねている父親やモーグルでオリンピックへの出場権を得ていた息子の姿をみているうちに自責の念にかられるようになったのです。「命を燃やして人生を生き尽くす。このたった一つの命題こそ、僕にとって最大、最高の目的だったはずではないか」、と。

そして取り組んだのがエベレストの登頂でした。「トレーニングをし直そう。もう一度、ネジを巻き直すのだ」、そう自分に言い聞かせたのです。

目標は「エベレスト登頂」。他の不要なものには一切、目を向けることはありませんでした。少しずつ負荷を増やしながら、5000メートル級~8201メートルの山々でトレーニングできるところまで身心を回復させたのです。彼は「長くて遠いトレーニングだった。そこに目標があったからこそ続けられた」と述懐しています。

そして、70歳、75歳、さらには80歳と、3回のエベレスト登頂を成し遂げたのです。2013年(3回目)の登頂は「世界最高齢(80歳224日)でエベレスト登頂」としてギネス・ワールドレコードに認定されました。



(3) これからの目標:

エベレスト世界最年長登頂記録(80歳7ヶ月)を持つ三浦さん(85歳)は、2018年の秋にヒマラヤ山脈のチョ・オユー(標高8201メートル)を登頂し、山頂からス キーで滑降するという目標に向かってトレーニングを重ねています。成功すれば、自身の持つ「標高8000メートル以上の山の登頂に成功した最年長」のギネス記録が5歳以上更新されることになります。


【私の感想】

三浦さんはサムエル・ウルマンの詩「青春」から飛び出してきたのではないかと思います。私自身も熱いエネルギーをもらうことができました。

*「青春」については、本サイトの[自己啓発百科>やる気のスタートボタン>#013]を参照してください。 ▶[#013]へ



【引用・参考資料】

(1) 三浦雄一郎 『人生はいつも「今から」』 KKロングセラーズ 平成18年。

(2) 三浦雄一郎 『75歳のエベレスト』 日本経済新聞出版社 2008年。

(3) 日刊スポーツ (2018年1月30日)。

(4) オフィシャル・ウェブサイト・ミウラドルフィンズ http://www.snowdolphins.com/ (2018/04/06).




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057: 鎌田實さんの自己啓発

鎌田さんは1歳の時に養父母である父(岩次郎)と母(ふみ)に引き取られました。青森県出身の父は運転手として働いていました。また、母は心臓の病気で入退院を繰り返していました。したがって、生活はけっして楽なものではなく、一家だんらんの機会も多くはありませんでした。ただ、住んでいた杉並区和田の人々は人情味に溢れており、ずいぶんと優しくしてくれたそうです。

そして一つの転機がおとずれます。それは大学入試を巡るものでした。鎌田さんが「医学部にいきたい」と言うと、「ばかなことを言うな。貧乏人は働けばいいのだ。大学なんて行かなくていい」と父に怒られたのです。病に苦しむ母を見ていて「病気の人を助けたい」と決意していた鎌田さんは、「ものすごいショックだったと」と記しています。しかし、彼の意志は固く、最後には父をして「お前の自由に生きろ」と言わしめました。鎌田さんは「これからは自分の責任で生きるのだ」と心に誓ったそうです。

それ以降、彼は毎朝4時半に起きて勉強を続け、一浪して東京医科歯科大学と千葉大学、横浜市立大学の医学部に合格し、東京医科歯科大学に入学しました。そして卒業を迎える頃、「諏訪中央病院が医師不足で困っている」との話を聞き、地域医療に生きることを決意したのです。長野県の佐久総合病院を育て、農村医学の父と呼ばれた若月俊一医師の生き方にひかれていたのが大きな理由でした。

諏訪中央病院では医療実務に携わるだけでなく早朝の英語論文輪読会にも参加していました。また、東京の三井記念病院と東京女子医科大学病院で3ヶ月間の研修にも取り組みました。諏訪中央病院で3日、東京で4日を過ごすという多忙な生活でした。

そして39歳の時、院長に就任したのです。「地域に開かれた病院づくり」、そのことを自分の信念として医療実務と経営実務に携わり、一方ではドラッカーの経営書なども読みました。かくして、赤字続きであった経営を数年で黒字に転換させたのです。

院長職を退いたのは53歳の時でした。かねてより、「50歳からは世界の途上国で医療活動をしたい」という思いがあったのです。かくして現在は日本チェルノブイリ連帯基金と日本イラク医療支援ネットワークという二つのNPO活動に情熱を注いでいます。



【付記】

(1)
鎌田さんは旅券申請のために戸籍謄本を取り寄せる(37歳)まで、自分の両親が養父母であることを知りませんでした。

(2)
引用・参考文献の出版時点における情報ですが、4時半の起床はずっと続けているそうです。



【私の感想】

慈悲の心を持ち、努力を惜しまず、実務と理論を融合させながら、自己啓発を続け、次々と新しい目標の実現に取り組んでいる鎌田さんには、これからもずっと活躍して欲しいと願っています。



【引用・参考資料】

日本経済新聞社(編) 『自分をあきらめない20の人生の物語-人間発見』 日本経済新聞出版社 2012年 pp.278-297. 



【鎌田實_オフィシャル・ウェブサイト】

鎌田さんの活躍についての詳細はオフィシャル・ウェブサイトをご覧ください。

http://www.kamataminoru.com/index.html (2018/02/18).


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056: 目標を持つことは素晴らしい_67歳の女性社長

最初に一つのお願いがあります。ここで紹介する事例は67歳になる女性社長の話ですが、「社長の自己啓発」ということではなく、「自己啓発目標を持つことの素晴らしさを学ぶ事例」として受け取っていただきたいのです。「自分は社長ではないから……」と言わずに読んでみてください。


紹介するのは京都市上京区の義肢装具製作会社で社長を務める大井和子さん(67歳)です。

大井さんは職歴44年のベテラン義肢装具士でもあるのですが、義肢開発について「もっと学びたい」との思いを持っていました。一方、会社では学生の見学を受け入れており、たびたび教授陣と意見を交わす機会もありました。

かくして大井さんは大学院の受験を決意、2012年4月に新潟医療福祉大学大学院に入学しました。

そして会社経営の傍ら修士課程と博士課程で計5年間新潟へ通い続け(従来のプラスチック製ではなく、軟らかいシートで芯材を包み込むサポータータイプの)足用新装具を開発、学位を取得したのです。

14日に博士となった大井さんは「これから英語を習って海外留学もしてみたい」と夢を膨らませています。


【引用・参考資料】

京都新聞(デジタル版)_2017年04月23日.


【付記】

関連の拙著を紹介しておきます。関心のある方はコーナー[拙著の紹介]をご覧ください。▶[拙著の紹介]へ

(1)『自己啓発の事例と自己啓発の進め方』
(2)『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』
(3)『ライフプランから始める本気の自己啓発』





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055: OLからイラストレーターになった押金美和さん

押金美和(おしかねみわ)さんは法政大学の社会学部を卒業してOLになりましたが、絵を描くのが大好きで「イラストレーターになりたい」という夢も持っていました。ですので、OLとして働きながらも、機会があれば絵を描いていました。

その原動力はイギリスのロックグループ「コールドプレイ(COLD PLAY)」のクリス・マーティン。クリスの透き通った歌声が大好きだったのです。音楽を絵にする、押金さんは彼らの曲を聴きながらイメージを膨らませイラストを描き続けました。

さらにはイラスト制作の勉強会に参加するようになり、企業の公募やコンクールにも片っ端から応募するようになったのです。

やがて、小さな仕事を切っ掛けにして徐々にイラストを描く仕事が入るようになりました。

そこで彼女は「絵に専念する」と決心します。OLを辞め、美術館でのアルバイトを始めたのです。「お金を使わずに絵の勉強ができる」というのがその理由でした。

押金さんはそのごも工夫と努力を重ね、今や正真正銘の「イラストレーター」として活躍しています。彼女の作品はウェブサイト(HP)でも見ることができます。



【引用・参考資料】

(1)夏川賀央 『働く「しあわせ」の見つけ方』 かんき出版 2010年 pp.26-30.
(2)押金美和_HP [http://www.oshikanemiwa.com/jp/career/index.html] (2017/12/01).


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054: 高校・大学時代を独学で過ごし、東大教授になった柳川範之さん

柳川範之さんは父親の仕事の関係で一時ブラジルに住んでいましたが、ブラジルでは日本から取り寄せた教科書と参考書で自習していたそうです。以来、独学を続け大学入学資格検定に合格、さらに慶応大学経済学部の通信教育課程を卒業、東京大学大学院に入学するまで独学を続けました。現職は東京大学大学院経済学研究科教授、その柳川さんが語る「独学」の要旨を紹介します。



「独学」とは、自分でテーマを決め、自分でプランニングをして主体的に学んでいくという意味であり、仲間や指導者がいるかいないかということではない。


独学は、自分で考え自分なりの答えを出せるようにする、あるいは自分で判断を下せるようにするための訓練に向いている。


独学には、自分のペースで勉強ができるという利点がある。意志が弱くても完璧を目指さなければ継続できる。継続することが大切。


関心を持った分野の勉強を始めるには入門書を3冊購入し、そこに紹介されている文献を芋づる式に読んでいくとよい。


同じ本は2回読む。1回目は内容を理解するために、2回目は批判的に。



【付記】

柳川さんは次のように締めくくっています。

「私もかなりの怠け者です。それでも独学は務まりました。なぜなら、自分で立てた目標の3割でも実現できればいい、と割り切っていたからです。独学で大事なのはやり続けること。だから、3割できれば上等なのであって、それくらいの気持ちで取り組めばいいのです」(要旨)。



【引用・参考資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2016年7月4日号)  pp. 54-55.


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053: 1000冊読めば1000の人生経験_ファミリーマート会長・上田準二さん

ファミリーマート会長の上田準二さんは読書による疑似体験を大切にしています。今回は、その紹介です。


上田さんは大学卒業後、伊藤忠商事に入社、CVS事業部長などを経て2000年にファミリーマート執行役員に就任しました。そのごは2002年に社長、2013年には会長に就任しています。上田さんは「読書」について以下のように述べています(要旨)。



子供のころから「日本文学全集」などを読んでいた。大学に入ってからは時代小説をよく読んだ。その(読書の)習慣は今も続いている。


本を読む時には主人公ではなく、負ける人物とか物語から消えていく人物に自己投影する。そして、自分だったらどうするかと思いを巡らす。たとえば、三国志(吉川英治)、私本太平記(吉川英治)、漆の実のみのる国(藤沢周平)、蒼穹の昂(浅田次郎)なども、そういう読み方をしてきた。


そうやって重ねてきた何千という疑似体験が結果として自分の「考える力」・「稼ぐ力」・「行動する力」の基礎になっている。



【付記】

ただ読むのではなく「自分だったらどうするか」と考えながら読む、という態度が効果的な疑似体験になるのだと思います。また、「読書が習慣になっている」という点にも着目すべきでしょう。

「これから……」という方は、関心がある分野の本を選び、少しずつ「考えながら読む」ようにしてはどうでしょうか。

ただし、「少しずつ」とは「気が向いた時に……」という意味ではありません。「毎日、少しずつ」という意味です。習慣にするためには日々の継続が欠かせないと思うのです。



【引用・参考資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2016年7月4日号)  pp. 30-31.


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052: セルフ・コントロールが巧みな女性経営者

辛かった40代をセルフ・コントロールで乗り切った女性経営者の紹介です。その人は佐々木かをりさん。二人の子供の母親でもあります。


■現職:

佐々木さんの現職は(株)イー・ウーマン代表取締役社長です。


■イー・ウーマンとは:

佐々木さんは自身のサイトで次のように述べています。

「20代の半ばに、通訳者をネットワークするユニカルインターナショナルを設立しました。一人ひとりで仕事をするフリーランスの人たちが互いにつながることで、学び合い、効率よく仕事ができるようにしたいと考えたことが一つの理由です。しかし仕事をするうちに、30歳前後の女性たちが結婚や出産などをきっかけに組織から消えていくという現象を目の当たりにしました。クライアント企業などに伺っても、女性に会うことがほとんどなかったのです。わたし自身が、やっと仕事について考え始め、やっと自分の足で歩きたいと考え始めた大切な時でした。かくして(二人目の子供を授かった翌年)40歳の時、先輩に会い仲間と語り合えるネットワーク(イー・ウーマン)をつくったのです。年1回の国際女性ビジネス会議、数々の講座やインターネットでの交流など、多面的な機会を提供するネットワークです」(要旨)。


■苦難を乗り越えて:

事業経営にはさまざまな苦難が伴います。それを乗り越えるべく、佐々木さんは以下のような心構えで事業経営をしています。


「人は逆境の中でこそ試される。恵まれた環境にいたら成果を出せるのは当たり前。実際には、そんな良い環境は、まずあり得無い。環境のせいにせず、他人のせいにせず、自分の工夫と努力で成果を出す」(要旨)。


「なんらかのストレスがあるのは当たり前。普段から、自分に合ったストレス解消法を用意しておくことが大切」(要旨)。


「自分を立ち直らせる方法を用意しておくことも大切。落ち込んでいるだけでは状況は好転しない」(要旨)。


「約束管理だけでなく、自分のための時間管理もする。手帳に書いてあるアポイントや締め切りなどのメモは約束管理のため。それ以外にも、自分のための時間を生み出す工夫が必要。そして、生み出した時間を有効に使う工夫が必要」(要旨)。


「女性の40代は公私ともに環境の変化があったり、ストレスがある年代。しかし、それを乗り切る工夫ができる年代でもある」(要旨)。


【引用・参考資料】

(1) 『PHP Business THE21』 (2016年10月号) pp.22-23.

(2) イー・ウーマンのウェブサイト (2017/06/02).

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051: カルビー会長兼CEO・松本晃氏の自己啓発

カルビー会長兼CEO・松本晃氏の自己啓発です。氏の自己啓発にはいくつかの「核」になる考え方があります。以下においてはその「要旨」を紹介します。*は私の補足説明です。



「目的を持って学ぶ」。*たんなる好奇心や思いつきで学ぶのではなく目的を持って学ぶことが大切である、ということだと思います。自己啓発に取り組むにあたっては「その目的」を明確にしましょう。

念のために申し上げますが、「英会話を学ぶ」というのは「目的」でない場合があります。社費による海外留学のための英会話であるならば、「海外留学」が目的です。将来の経営幹部を目指すための「海外留学」であるならば、「経営幹部になること」が目的です。「何が目的か」ということについては突き詰めて考える必要があります。


■「本から学ぶ」。*松本氏は関心を持った本は手当たり次第に読むそうです。ただし、30ページほど読んでみて面白くない本は「ゴミ箱行き」になると言っています。


■「仕事から学ぶ」。*本だけではなく、仕事をとおして学んでいくという姿勢です。そのためには、「仕事を振り返る」ことが必要だと思います。たとえば、その日の仕事を振り返り、そこから教訓を抽出するのです。振り返り無しに仕事をするよりも、ずっと多くのことを学ぶことができます。


■「人から学ぶ」。*仕事をとおして学ぶということと重なるかもしれませんが、松本氏は人から学ぶことも大切にしています。講演会にも足を運ぶそうです。「我れ以外みな我が師也」といった言葉を思い出します。



「学んだあとは、自分でも考える」。*本を読んだあと、仕事を終えたあと、人に会ったあとは自分自身でもよく考えるそうです。「学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」という言葉を思い出します。


「1回読んで分からなかったら、5回読む。そうすればほぼ理解できる」。*「5回」にこだわって解釈してはいけないと思います。要は、分からなかったら分かるまで読め、ということでしょう。3回で分かることもあるし、6回で分かることもあるわけです。


■「人生で一番大事なことは学ぶことだと思う。自分が良くなろうと思ったら自分に投資をしなくてはいけない。その投資とは学ぶことである」。*ほんとうに、そう思います。私自身もずいぶんと自己投資をしてきました。関心のある方は当サイトの「自己啓発の軌跡」をご覧ください。「自己啓発の軌跡」へ


【引用・参考資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2016年7月4日号)  pp. 26-27.


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050: 堀紘一さんの「覚える技術」

読売新聞社、三菱商事、ボストン・コンサルティング・グループ日本代表を経て、ドリームインキュベーター会長を務める堀さんの「覚える技術」です。

堀さんの覚える技術は「読む」・「声に出す」・「書き出す」の三つがセットになっています。


「読む」。本を読む時には重要と思われる個所に付箋紙を貼ったり、印を付けたりしておきます。


「声に出す」。本を読み終えたあと(後日)、付箋紙を貼ったり印を付けたりした個所を音読します。声に出すことで記憶に残りやすくなるそうです。


「書き出す」。本に書かれているキーワードや文中の要点、そして本の要約を書き出します。書くことによって記憶の定着率が上がると言います。本の要約にあたっては、「三段論法」や「起承転結」を活用して簡潔にまとめるようにしているとのことです。



【引用・参考資料】

『日経ビジネス[アソシエ]』 (2016年3月号) pp.30-32.


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049: 人と本と旅(現場)から学ぶ

ライフネット生命保険・会長の出口治明氏のモットーです。出口氏は次のように言っています。


「人が学びを得るのは『人・本・旅』からだ。旅とは遠くに行くことだけではなく、現場に足を運ぶことをも含める。人の話を聞き、本をよく読む。そして、現場に行って体験してみることが大切である。『百聞は一見に如(し)かず』であるからだ」(要旨)。 (p.19).


「ムダな仕事を排して少しでも自由時間を確保し、その時間で大いに学ぶべき。人と本と旅は世界を広げてくれる」(要旨)。 (p.1).



【引用・参考資料】

『THE21』 2016年10月号。



【付記】

「釈迦に説法」となるかもしれませんが……。

人に会って、本を読んで、旅をしたら(現場に行ったら)、その後でよく反芻することが必要です。そして、学んだことを(あらためて)自分に染みこませるのです。出口氏もきっとそうしていると思います。

経営コンサルタントの時代、私は手帳の他に5×3インチの情報カードを持ち歩いていました。面談後の感想、読後感、現場情報などを書き留めていたのです。「書く」という、その作業が学びを確かなものにしてくれました。

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048: 聴覚障害者(田村聡さん)初のエベレスト登頂

聴覚障害者の田村聡さんが初のエベレスト登頂に成功したというニュースです。田村さんは山好きの父と祖父の影響で13歳の時から登山を始めました。これまでの山行は千回以上になると言います。

世界最高峰(エベレスト)へのアタックはこれが3年連続3回目。初回は頂上まであと一息のところまで迫りながら、強風のため断念しました。3回目となる今回は酸素ボンベのマスクが凍り呼吸が苦しくなるアクシデントに見舞われながらも、シェルパに支えられながら登頂に成功しました。

田村さんは筆談を交えて次のように感動を表現しました。

■「頂上から見た青い空、雲海の合間にのぞく山は神秘的だった」。
■「好きな事をチャレンジしてみると良い。勇気を出せば道が示される」。
■「勇気と努力で道は開ける。聞こえなくても努力すればできます」。



【付記】

田村聡(たむら・さとし)さんは1965年1月、東京都立川市生まれ。生まれつき聴力障害があり、都立立川ろう学校高等部を卒業。13歳の時、父や祖父の影響で奥多摩や北アルプスを登り、2002年8月には西欧の名峰モンブラン(4810メートル)に登頂しました。現在は両親と3人暮らし、不動産のビル管理の仕事をしています。



【引用・参考資料】

東京新聞(2016年5月30日&2016年6月8日)_東京新聞 TOKYO Web(2016/08/31取得)。


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047: 目標管理や会社主導の自己啓発において「目標を見つけるヒント」

「毎期の目標管理シートの記入が悩ましい」・「事務職なので会社主導の自己啓発における目標が見つけにくい」・「業務上の自己啓発目標をどうやって見つけたらよいか分からない」・「何年も続けているので仕事に関係した自己啓発目標が見つけにくくなってきた」といった悩みを抱えている人が少なくありません。そこで、いくつかのヒントを提供します。なお、これらのヒントは小集団活動(QCサークル活動)・OJTなどにおいても活用できます。



【基本的な考え方】


会社や職場の目標および方針を確認します。そして、それらに整合性のある目標項目を設定しなければなりません。


漠然と改善点を探すのではなく、PQCDS(生産性・品質・コスト・納期・安全性)の観点から改善点を探し、それらを参考にして(改善)目標を決めます。つまり、生産性についての改善点はないか? 品質についての改善点はないか? と考えていくわけです。そうすると、PQCDSは仕事を進めるうえでの主要な着眼点ですから、重要な改善点(すなわち目標候補)の探索漏れを防ぐことができるのです。

ただし、PQCDSの意味は職種に対応させて置き換えながら使う必要があります。たとえば、営業職の場合のP(生産性)は販売額や利益率に、事務職の場合のQ(品質)は計算ミスや転記ミスに置き換えるわけです。以下には置き換えのヒントになりそうな語句を掲げておきますので各自の担当職務に対応させて置き換えてください。


▶P(生産性)製造→単位時間あたりの生産量・単位労働力あたりの生産量・能率・作業速度・仕掛品・中間在庫。営業→販売量・販売額・利益率・営業移動時間。事務→単位時間あたりの事務処理量・単位労働力あたりの事務処理量。全社→残業時間・総人件費。

▶Q(品質)製造→不良率・作業ミス・検査ミス・出荷ミス。営業→受注ミス・納品ミス・製品説明ミス・接客クレーム。事務→計算ミス・転記ミス・通話ミス。全社→コンプライアンス。

▶C(コスト)製造→製造コスト・検査費用・在庫費用。営業→各種営業コスト。事務→事務処理費用・直間比率。全社→各種人件費・通信費・光熱費。

▶D(納期)製造→製造期限。営業→納品期限。事務→作成期限・提出期限。

▶S(安全)製造→作業事故。営業→交通違反・交通事故。事務→事務機器の誤使用。



個人的な目標に貢献する業務目標は取り組み意欲を高めます。たとえば、自分が身につけたいと思っている能力を向上させる目標、将来のキャリア形成(あるいは自己申告制度)に役立ちそうな目標、自分の定年後の計画に役立つ目標など。


目標値は明確に設定します。できるだけ「数値目標」にしましょう。それが難しいときは「箇条書き」でもよいです。なお、[003: 定性的なデータを数量化するためのチェックシート(解説)]も参考にしてください。



【目標発見方法の1】_業務の棚卸し


漠然と改善点を探すのではなく、自分の担当業務を洗い出して改善点を見つけ出す方法です。


(1)
まず、自分の主要な職責を確認しておきます。たとえば、売上の拡大・利益率の向上・顧客数の増大、生産量の拡大・不良率の低減・事故率の低減など。

(2)
次に、その職責についての改善点(問題点・課題など)を把握します。たとえば、必要利益率を確保できていない、不良率に大きな「ばらつき」がある、など。

(3)
そしてのち、毎日やる仕事・1週間単位でやる仕事・1ヵ月単位でやる仕事・期ごとにやる仕事・1年ごとにやる仕事を洗い出し、PQCDSの観点から改善点(問題点・課題など)を把握します。

(4)
これら(1)~(3)の一連の作業が「業務の棚卸し」です。業務の棚卸しに際しては、できるだけ業務を細分化して行うようにします。そうすると改善点を発見しやすくなります。

(5)
以上の手順で発見された改善点を検討して目標に置き換えます。


(1)
PQCDSの意味は一定ではありません。ここでは、Productivity=生産性、Quality=品質、Cost=コスト、Delivery=納期、Safety=安全性、という意味で使っています。他方、Products(品種)、Quality(品質)、Cost(価格)、Delivery(納期)、Safety(安全)、などと説明されることもあります。資格試験の解答などにあたっては、その分野での定義を確認して下さい。

(2)
業務の棚卸しをするにあたっては、ワープロソフトを使うと修正や順番の入れ替え、保存などに便利です。



【目標発見方法の2】_自己分析


[成果=意欲×能力]という考え方がありますが、この概念式の「能力」に着目してみる方法です。


「業務の棚卸し」の結果を活用して不足している能力を見つけ出します。そのうえで必要とされる能力の向上を目指します。


社内の各種人事・教育制度や外部のさまざまな資格試験に連動させることも有効です。



【目標発見方法の3】_目標値を上げていく


目標項目はそのままで、目標値を高めていく方法です。実現可能な目標値を設定しながら、少しずつレベルアップさせていきます。



【目標発見方法の4】_御用聞き


職場の同僚、後工程(仕事のうえで関係のある部署)の人達、さらには上司などから(改善)要望を聞く方法です。


要望を出した人は改善を期待しますので、十分に考えてから実施します。不安が残る場合はやらない方がよいです。



【目標発見方法の5】_日々、「私的業務日誌」を書く


「業務日誌」というと少し大袈裟ですが、その日の仕事が終わったあとで問題点や課題を手帳などにメモしておく方法です。もちろん、気がついたときにすぐ記録するのがベストです。そのあとで、それらの問題点や課題を参考にして目標を考えます。


毎日、必ずメモするようにします。思い浮かぶ問題や改善点が無いときは「無し」と記入します。つまり、この作業を「習慣」にする訳です。習慣になってしまえば億劫(おっくう)になりません。



【目標発見方法の6】_「チャレンジ目標」を考えてみる


「チャレンジ目標」とは現在の担当業務の枠を越えて設定する目標のことです。たとえば、現在の担当業務の範囲を拡大する(つまり有意義な新しい仕事を創り出す)、上司の担当業務の一部を代行できるようになる、自分の担当業務以外の仕事を担当できるようになる、といったことです。ただしこれらは「直属上司の承認」や「他部署の責任者の承認」を必要とすることが多いので(目標カードに記入する前に)あらかじめ直属上司に(非公式な)相談をしておく方がよいでしょう。



【付記】

拙著『自己啓発の事例と自己啓発の進め方』(Kindle 版) 第4章も参照してください。

第4章 会社主導の自己啓発にどう取り組むか

 第1節 目標の見つけ方
 第2節 実行計画(表)の作り方 _「決意表明」作成のポイント
 第3節 実行のポイント(復習)
 第4節 振り返りとフィードバック
 第5節 会社主導の自己啓発と私的自己啓発の統合



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046: フランスで91歳の女性が博士号を取得

フランスでの話です。15日に91歳の女性が博士号を取得しました。

その人の名はコレツト・ブルリ工さん。彼女が約30年間かけて完成させた論文がフランス東部ブザンソンにあるフランシュコンテ大学の審査に合格したのです。論文のタイトルは「20世紀後半のブザンソンにおける移民労働者」。移民の読み書きの教師を務めた自身の経験が下敷きになっているとのことです。論文は「極めて優秀」と評価されました。

「それがどうしたの?」、「海の向こうの話」、「閑があったのだろう」といった声も聞こえてきそうですが、私は「目標を持って歩み続けることの大切さ、素晴らしさ」を再認識しました。

あなたはどのように思いますか?



【引用・参考資料】

(1)時事ドットコム  (2016/03/16) .
(2)釼地邦秀(2016年) 『定年後の目標とライフプラン』(Kindle版) 自己啓発支援センター.

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045: 年間100冊の読書を10年間続けた(日本交通社長)知識賢治さん

知識賢治(ちしき・けんじ)さんは大学を卒業後、鐘紡(後のカネボウ)に入社。営業畑を歩んだのち、35歳で子会社「リサージ」の社長に就任しました。その後は、41歳でカネボウ化粧品の社長、さらに2015年(52歳の時)に「日本交通」の社長に就任しました(現職)。

その知識さんの読書体験について、要点を紹介します。

(1)
20代後半に、1年間で100冊を読むという目標を立てた。*結果的には10年間続けたそうです。

(2)
幅広い知識を吸収しようと、「営業」以外の分野の本にも目を向けた。*人事・労務、財務・会計、マネジメントなど。

(3)
本を読むときには「結論は何か」・「著者が訴えたいこと(ポイント)は何か」、それを意識して読んだ。*大事なところには傍線を引きながら、頭の中で要約しながら、余白にはメモを書き込みながら読みました。さらに、重要だと思った本についてはノート4,5頁に全体の要約を記したとのことです。

(4)
新聞は4紙以上に目を通した。*日本経済新聞、読売新聞、朝日新聞、日経流通新聞(日経MJ)など。

(5)
読書の場所は3ヶ所。通勤車中、自宅最寄り駅の近くにあるカフェ、そして自宅(トイレ・浴室・ベッドでも)。*もちろん隙間時間も読書に充てました。帰宅前のカフェでの読書は、まだ気持ちが仕事モードなので効果的な読書ができたそうです。自宅では複数の本を同時並行的に読みました

(6)
その他、「学び始めるタイミングに『遅い』は無いと思う。上司・先輩から学ぶことも大切」と語っています。



【引用・参考資料】

『日経ビジネス[アソシエ]』 (2016年3月号) pp.26-29.

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044: いくつになっても自己啓発を続ける田部井淳子さん

女性登山家として著名な田部井淳子さんは1939(昭和14)9月22日、福島県三春町に生まれました。1975(昭和50年)、エベレスト日本女子登山隊・副隊長兼登攀隊長としてエベレストの登頂に成功、女性初の登頂でした。また、1992(平成 4)には女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となりました。現在(2015年)までに70カ国以上の最高峰登頂に成功しています。

その田部井淳子さんの50代以降の自己啓発歴を紹介します。

54歳:車の免許取得。
◇58歳:九州大学大学院・比較社会文化研究科・修士課程入学(平成12年3月修了)。
◇64歳:本格的に歌を習い、歌手デビューを果たす。
◇68歳:ブログを開始。
72歳:腹膜癌と診断され手術・抗がん剤治療を受けるも、合間をぬって山歩きを継続。
◇76歳以降:数回の海外登山を含め、1年間に140日くらいは山登りをしている。




【引用・参考資料】

(1)
NHK番組:D's スタイル 「いくつもの山を越えて~田部井淳子(76)~」 (2015年11月27日放送)。映像からは、ご主人の協力に感謝している様子が伝わってきます。

(2) 田部井淳子 official web site. (2015年12月11日現在)。



【追記】
田部井淳子さんは2016年10月20日、腹膜がんのために埼玉県内の病院で亡くなりました。77歳でした。(YOMIURI ONLINE:2016/10/22)。ご冥福をお祈りします。


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043: 40代で英語をマスターした男性課長

D工業Y課長の奮戦記です。Yさんが英語力向上に取り組み始めたのは40歳の時でした。自社の製品が世界中の各種法規制に適合しているかどうかをチェックする部門が創設され、マネジャーに就任したのが切っ掛けです。業務で読む文章は8割が英語、海外拠点のメンバーとのやりとりも英会話が中心です。当初は英語が得意な人に任せていましたが、「本腰を入れて英語を勉強しないと、この会社では生きていけない...」と危機感を抱いたのです。

そこでまず自費で英会話学校に通いだしました。それと英文法のやり直しです。文法書を購入してSVOのレベルからやり直しました。さらに風呂上がりには書籍形式の単語帳でボキャブラリーを増やしていったのです。毎日4頁(16単語)を目標に暗記し、例文は声に出して読みました。しばらく経ってからは、英会話学校への通学を社内の英会話レッスンに切り替えて継続、単語帳は7年(14周)めに入っています。「今日もやった」という気持ちを切らさないために、どんなに遅く帰っても、5分だけでも単語帳に取り組むそうです。加えて、通勤の車の中ではヒヤリングのCD教材を流し、出張の新幹線では携帯音楽プレーヤーで英語の番組を聴いています。これもすでに3, 4年続けているとのことです。

かくして英語力は格段に向上、「本腰を入れて英語を勉強しないと、この会社では生きていけない...」と危機感を抱いていた自分はすでに過去のものとなったと言います。Yさんは、「完璧は目指さないが毎日歯を磨くように継続するのがコツ」と語っています。



【引用・参考資料】

(1) 『PRESIDENT』 (2013年4月18日号別冊) pp.54-55.



【付記】

*出典では社名・個人名が明記されていますが、ここではアルファベット表記にしました。



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042: 40歳過ぎてから「自分らしく生きたい」と新たな道を選んだ女性

宮川晴妃(みやがわ・はるき)さんの紹介です。宮川さんは1937年生まれ、18歳で美容業界に入りました(美容師)。その後、1977年に御主人と「エムアイケア」を設立、1993年には移動美容室「ヘアクリーン倶楽部」を開設しました。さらに1998年にはフィンランドで3ヶ月間「爪のケア」の講習を受け、帰国後すぐに「爪切り屋」(Medical フットケアJP 協会)を設立、各種施設で足の爪のケアを施すとともに全国規模の講習会を開始、現在に至っています。

1993年の移動美容室「ヘアクリーン倶楽部」開設の頃には55歳になっていましたが、「寝たきりや身体の不自由な方に、きれいに、元気になってもらいたいと思って実行にうつした」とのことです。

1998年にはフィンランドで「爪のケア」の講習を受け、帰国後すぐに「爪切り屋」(Medical フットケアJP 協会)を設立、高齢者の自力歩行を支援しています。(講習に参加する前、宮川さんはフィンランドの老人介護施設を視察したことがありました。その時、白癬菌に侵されて厚爪・硬爪・巻爪となり自力歩行が困難になっている高齢者が足の爪のケアによって自力歩行が可能になるという事実を知ったのです)。

その後は足の爪のケアを行う施術者を育成するために教室を開いたり、全国各地での指導もするようになりました。

最後に彼女の言葉を紹介してこの項を終えることにします。「学ぶことって、最高よ。人に教えてもらったりするのはステキ。昨日できなかったことが、今日できるようになるなんて、すばらしいことじゃないですか」。



【引用・参考資料】

(1)メディア・ビュー(編著) 『「人生リセット」カタログ』  東京書籍  (2003年) pp.172-181.
(2)「爪切り屋」(Medical フットケアJP 協会)HP (2015年11月13日現在)。


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041: 13人の女性達が立てた今年の目標

『日経WOMAN』で13人の女性が今年の目標「1年プラン」を公開しています。あなたの将来目標を考えるヒントになるかもしれません。*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは省略しました。



【仕事の目標】

(1)
中国語をマスターしてアジアに出る機会を増やしたい。(電子機器メーカー・海外営業部・26歳)。

(2)
収入よりも、やり甲斐を求めて転職した。心機一転、頑張る! (人材紹介・営業・32歳)。

(3)
メイク関連の仕事に就きたい。メイクアップ技術検定試験の2級合格を目指して筆記試験のための勉強と実技の練習に取り組んでいる。(ホテル・事務・27歳)。

(4)
簿記の資格を取る。予備校に通うことを検討中。(金融保険・事務・40歳)。

(5)
契約社員から正社員になった。社内外の人との交流をさらに広げて市場ニーズに敏感になり、仕事上での企画提案に結びつけたい。(メーカー・研究職・28歳)。

(6)
FPとして独立して3年目、SNSを活用した全国展開をさらに加速させたい。(FP・41歳)。

(7)
昨年VMDインストラクター*と商業施設士の資格を取得した。今後はコンサルティング事業を本格化させたい。(卸売業・役員・32歳)。*VMD(Visual Merchandising)インストラクターとは売り場づくりのスペシャリストのこと。



【プライベートの目標】

(1)
着物が大好きで浴衣は毎年着ている。着付け教室に通い妹の結婚式に着物姿で参列したいと思っている。(製造・技術職・27歳)。

(2)
昨年秋に作成した「夢リスト100」を具体化して叶えたい。30歳だからこそ、輝く! (通信・財務経理・29歳)。

(3)
これからの幸せのためには一人暮らしが必要と感じ物件を探している。(キャリアコンサルタント・42歳)。

(4)
ハーフマラソンに挑戦する。(建設・営業・26歳)。

(5)
ドイツに行ってサッカー観戦をする。地響のような歓声の中に身をおいて観戦してみたい。ドイツ語の勉強を開始し、貯金も始めた。(商社・事務・28歳)。

(6)
安藤美姫選手の演技を見てからフィギュアスケート始め、5年目。大人の愛好家向けの試合などに参加して結果を出したいと思っている。(デザイナー・26歳)。



【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2015年2月号) pp.30-31.



【付記】

この項は「自己啓発の周辺」から移設したものです(2015/10/21)。



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040: 会社に貢献しながら自分のライフプランを実現した井上富雄氏

「サラリーマンが会社に貢献しながら自分のライフプランを実現していくのは難しい」と考えている人は少なくないと思います。就業規則、業務命令、人事異動といった組織のルールが優先されるからです。しかしながら、方法が無いわけではありません。それを体現したのが井上富雄氏です。

昭和4年(1929年)生まれの井上氏は(旧制)中学校と神戸経済大学経営計録講習所を経て昭和25年に日本アイ・ビー・エムに入社しました。そして、当時はまだ小さな会社であった日本アイ・ビー・エムに(大いなる)貢献をし続け昭和42年に取締役、昭和49年には常務に就任しました。数年間の療養生活をも乗り越えての成果でした。

しかし昭和51年、突如として退職、国際経営コンサルタント(ジャパン・マネジメント・アドバイス社長)として独立したのです。この転身は彼の「25年人生長期計画」にしたがったものでした井上氏は会社に貢献しつつ、しかも自分の人生計画にしたがって「なりたい自分」になったのです

その過程の中核にあったのが「複数の専門分野でプロになる(社内の第一人者になる)」という考え方でした*。ある分野で第一人者になることは会社に貢献することになります。さらに工夫と努力を重ねれば社外にも通用するくらいの力量が身につきます。かくして、ある専門分野で第一人者になり会社に貢献するようになればなるほど、さらにその専門分野の数が増えれば増えるほど、会社への貢献度は高まり会社は自分の希望を叶えてくれるようになりますこうして彼は会社に貢献しながら自分自身の力量を増大させ自分自身のライフプランを実現していったのです。



【付記】

この考え方が中核にあったということであり、この考え方だけでライフプランを実現できたというわけではありません。念のために付記しておきます。詳細は【引用・参考資料】を参照して下さい。


【引用・参考資料】

(1)井上富雄 『ライフワークの見つけ方』 主婦と生活社 (昭和53年)。
(2)井上富雄 『サラリーマンの生涯設計』 実業の日本社 (昭和54年)。
(3)井上富雄 『新ライフワークのすすめ』 明日香出版社 (1991年)。
(4)井上富雄 『人生設計・ライフワークの原理・原則』 総合法令 (1994年)。
(5)
yaruki_hyousi.jpg 釼地邦秀 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター (2016年)。▶[内容紹介]へ
(6)
IMG_0118.JPG 釼地邦秀 『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社 (2013年)。▶[内容紹介]へ



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039: 海外で活躍する女性達

海外で活躍したいと考えている女性も少なくないと思います。そんな方々への事例紹介です。男性にもヒントになると思います。

(1)
A.J.さん。19歳でイギリスに語学留学。それ以来、日本に戻りアルバイトをしてお金を貯めてはイギリスと日本を行き来する生活を続けました。そして、その間に知り合ったイギリスの男性と結婚して移住。イギリスでの就職は難しく、100通を越える履歴書を送るもすべて不採用。しかし努力の甲斐あって、やっと広告会社に採用されました。その後、マネージャーになりましたが、「日本とイギリスとをつなぐ仕事がしたい」と転職を決意、日本のデジタル広告会社に移り、その会社の英国法人第1号社員になったのです。現在はチーフコンサルタントとして活躍しています。6歳から続けているクラシックバレエは現在でも継続中、日々の活動のエネルギー源になっているとのことです。p.60.

(2)
S.A.さん。米国に留学していた学生時代、現地で親しくなった友人の多くが韓国人であったことから韓国への思いが膨らみました。日本に帰国後はテレビ局のディレクターとして5年間勤務しましたが、その間も休みがあれば韓国に行っていました。結果、韓国の文化のとりこになり、韓国企業への転職活動を開始、通信社に勤務することになったのです。現在はマーケティング職として顧客の開拓や配信コンテンツの企画提案を担当しています。韓国語については以前から勉強していたのですが現地人の言葉を十分に理解出来ず不便を感じていました。そこで一念発起、週1回の個人レッスンを受けることにしたのです。そしてビジネスの交渉も韓国語でこなせるようになりました。p.61.

(3)
M.T.さん。オランダに渡った切っ掛けは外資系アパレル企業に勤務していた22歳の頃です。企画力を買われてオランダの系列会社の担当者から移籍の打診を受け、採用試験に挑戦したのです。しかし、語学力が不足していたため不採用でした。そこで再挑戦を始めたのです。現地の大学の特別語学コースに1年間通学し、就職に有利になる国家試験にも合格、地元でも人気で競争率が高いNPO団体への就職を決めました。「自分が企画したイベントで集まった収益金で、誰かを幸せに出来る仕事にやりがいを感じている」と語っています。p.63.


【付記】

引用・参考資料には実名が表記されていますが、ここではイニシャルとしました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2015年2月号)。


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038: 葛西紀明

2014年、ソチ五輪のラージヒル個人で銀メダルを手にした葛西紀明(かさい・のりあき)は1972年生まれ。40歳を越える現役ジャンパーです。冬期オリンピックの出場回数(7回)は史上最多で、レジェンド(legend: 伝説)と呼ばれています。その葛西の歩んできた道程を辿りながら自己啓発へのヒントを探してみました。

(1)
目標を持つ。葛西は常に目標を抱いて生活し、トレーニングに励んできました。ソチ五輪のラージヒル個人で銀メダルを手にした直後のインタビューでも次のように語っていました。「金メダルをとれば、ほんとうのレジェンドになれると思ったんですが...。また目標が出来たので、金メダルを目指してがんばりたいと思います。つぎの45歳、さらにその次の49歳と、自分の体力や技術はもっと向上すると思います。ここまできたら、あきらめず、最後までいけるところまでいきたい」。p.9.

(2)
努力を重ねる。葛西が下川ジャンプ少年団に所属していた頃の練習を幾度となく見ていた関係者は次のように語っています。「ほかの子が20本で練習を終えると、そのあと残って25本、30本と飛んでいました。リフトは使わせていなかったので、それだけの数を飛ぶのは、よほどの体力と気持ちがないとできなかったはずです」。p.60. そして、その努力は現在でも続いています。日本のジャンプ界を長年にわたって支えてきた名ジャンパー・岡部選手は次のように言っています。「今も昔も、かれを支えているのは驚異的な練習量です」。p.169.

(3)
めげない。葛西は子供の頃の生活について以下のように述べています。「恥ずかしい話ですが、小さなころは、ご飯が食べられないほど家が貧乏だったんです。電話もなくて、スーパーの買い物もつけ払いでした」。p.136. また、結果を出せなかったトリノ五輪の後、所属企業の川本社長から引退について聞かれた時には、「くやしい気持ちや、闘争心がなくなったら考えますが、今はまだそれがあるんで、飛びつづけます」と答えています。そして、葛西のトレーニングはさらにハードになっていったのです。p.137.

(4)
補遺。

・中学3年のころの葛西は秋元正博選手にあこがれを抱いており新聞の切り抜きを生徒手帳に挟んでいました。p.74. (自己啓発百科>やる気のスタートボタン>018:シンボルを活用する、も参照して下さい)。

・帰らぬ旅立ちに向かう優しかった母の手を取りながら葛西は思いました。「人の命っていったい、なんなのだろう」。p.106. (自己啓発百科>やる気のスタートボタン>001:人生は一度きり、今日一日を大切にしよう、も参照して下さい)。

・葛西の習慣の1つ。「眠りにつく前、明日の練習メニューを頭のなかで確認します」。p.182. (三日坊主の対策>[25]毎日、その日一日を振り返り、翌日の計画を確認する、も参照して下さい)。 



【引用・参考資料】

城島充(2015年/初版:2014年) 『レジェンド!』 講談社。


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037: 人生を変えた転機(企業家への道を選んだ女性)

鮫島弘子さん(41歳)。起業への不安や周囲の反対に悩んでいた鮫島さんは、ある社会起業家の講演会が転機になって起業を決断、エチオピア産の羊革を使った高級バッグの製造・販売を営むandu amet(アンドゥアメット)というを会社を設立しました。

その社会起業家とはノヴォグラッツさん。彼女の講演会を聞きに行った鮫島さんは「人生とは自分より大きなことを成し遂げること、そこに自由と夢がある」という言葉に強い感銘を受け公演後に御礼を伝えに行きました。そしてノヴォグラッツさんからさらなる励ましの言葉を貰ったのです。それは「Enjoy "Your" Journey」という言葉でした。鮫島さんは「この言葉が迷っていた私を後押ししてくれました」と語っています。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2015年2月号) p.36.


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036: スポーツ界から日体大へ入学した男性・女性

スポーツ界から日本体育大学へ入学した人達の紹介です。すでに御存知の方もおられると思いますが、体操の白井選手と元大関琴欧洲(現・鳴戸親方)が日体大に入学しました。

白井選手は新入生代表として「輝かしい伝統を継承すべく、幅広く教養を学び、約束を守って日々精進する」と宣誓。ブルガリアの大学で取得した単位があるため3年に編入する鳴戸親方は「最先端のコーチ技術を学びたいと思い、編入を決意した。一緒に頑張りましょう」とエールを送りました。

歓迎の挨拶は昨年飛び入学試験に合格して2年に在学するノルディックスキー・ジャンプ女子の高梨沙羅選手(クラレ)。「新入生であり、同級生でもある皆さまをお迎えできることをうれしく思う」と、歓迎のあいさつをしました。


【引用・参考資料】

(1)日本経済新聞・電子版 (2015/04/03).
(2)デイリースポーツ・online (2015/04/03).

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035: 強い思いで道を切り開き、旅客機のパイロットになった女性

メーカーの契約社員として勤めながら国内初の女性旅客機機長になった藤明里(あり)さんの紹介です。1968生まれの藤さんがパイロットを志したのは18歳の頃。しかし、目の前には大きな壁があり夢を叶えたのは32歳の時でした。

幼い頃から乗り物が好きだった藤さんが高校を卒業してパイロットを志した時、総ての道は閉ざされていました。当時の航空大学校の入学規定にあった身長要件には8cm足りず、航空会社と自衛隊からは「女性の採用はしていない」と言われたのです。

そこで、海外でライセンスを取得する道を選びました。アメリカでセスナ機の免許を取得し、インストラクターをして経験を積み、航空会社で働く資格を得る、という道です。

かくして藤さんは渡米し最初の免許を取ったのですが、貯金が底をついてしまい、いったん帰国。家電メーカーの契約社員として働き、お金を蓄えることになりました。さらには、自分の気持ちを奮い立たせるために日本女性航空協会(業界団体)に電話をかけ、航空機使用事業で働く女性パイロットを紹介してもらいました。実際に働いている女性の話を聞き、「諦めなければいつかは道が開ける」という気持ちを持つことが出来たそうです。アメリカで操縦免許を取得したのは25歳の時、その後も契約社員として働きながら国内の操縦免許を取得しました。

転機が訪れたのは31歳の時。JALエクスプレスがJALの子会社として創設されパイロットの募集が始まったのです。もちろん、藤さんは応募し、合格しました。女性パイロットとしては社内で2人目の採用でした。

しかし女性パイロットに対する見方はさまざまで、支援してくれる人ばかりではありませんでした。そんな中で藤さんが考え、実行してきたことの<要旨>を記しておきます。

■「自他共に納得の出来る仕事をすれば、否定的な視線もいずれは消滅していく」。
■「苦労してきた分だけ逆境にも強くなれる」。
■「自分のことは自分で成長させるしかない」。

結婚して子供をどうしようかと考える時期と機長昇格訓練のタイミングとが重なった時は「夫とよく話し合って訓練を受ける道を選んだ」とのことです。

2014年、JALエクスプレスはJALと統合。現在の藤さんはボーイング737の機長として乗務しています。いずれは国際線の機長として世界中を飛び回ることになるでしょう。



【引用・参考資料】

(1) 『PRESIDENT WOMAN』(プレジデント2015年3月6日号別冊) pp.31-33.
(2)
yaruki_hyousi.jpg 釼地邦秀  『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター (2016年). ▶[内容紹介]へ
(3)
IMG_0118.JPG 釼地邦秀  『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社 (2013年). ▶[内容紹介]へ




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034: 大学(課程)卒業後の第二の人生に夢を膨らませる67歳の男性

最近は大学で学ぶシニアも増えてきていますが、その学びを卒業後の夢につなげることが出来ればなお素晴らしいと思います。ここで紹介するKさんは、そんなシニアの一人です。

Kさんは現在67歳。金融機関を経て中小企業の社長を務めたあと「立教セカンドステージ大学」に在学中です。学習意欲は高く、合同授業では最前列に座って積極的に発言していたとのこと。夏に実施された八ヶ岳山荘でのゼミ合宿では率先垂範して合宿委員長も務めました。

立教セカンドステージ大学では「学ぶだけではなく、修了後に何をするかを考えさせる」のを特徴の一つにしており、同窓会やセミナーを頻繁に開いて「第二の人生」をサポートしています。そんな環境の中で、Kさんは農業の楽しさと将来性に目覚め、他の受講生と一緒になって「有機農業研究会」を発足させました。「今後は仲間と力を合わせて日本一の有機農場をつくるのが目標」と、夢を膨らませています。


【付記】
(1)
この項の内容は日本経済新聞(2015年2月26日)の記事に依拠したものです。記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Kさん」と表記しました。

(2)
「立教セカンドステージ大学」は文部科学省認可の大学ではありませんが、本課程の修了者は文部科学省が定めた学校教育法105条の規定に基づく「履修証明書」が交付されます(立教セカンドステージ大学HPより:2015/04/10)。

(3)
「立教セカンドステージ大学」の詳細については各自で御確認下さい。





【引用・参考資料】

(1)日本経済新聞(2015年2月26日).
(2)釼地邦秀(2016年) 『定年後の目標とライフプラン』(Kindle版) 自己啓発支援センター.

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033: 10年先を意識した自己啓発(女性の事例)

「私には幼い頃から『10年先』を意識する習慣があります。早稲田大学に入りたいと思ったのは小学校3年の頃、フジテレビのアナウンサーを目指そうと決めたのは6年生の頃でした。一度決意したら、そのために何が必要かを考えてひたすら頑張る。その繰り返しでした」。そう語るのはフジテレビのアナウンサーから弁護士に転身した菊間千乃さんです。高校バレーボールの監督をしていたお父さんの姿をみて「努力なしに成功なし」という思いが育まれたといいます。

早稲田大学を卒業しフジテレビでの仕事を続けるなか、2005年から大宮法科大学院大学(夜間のロースクール)に通学、2007年には同社を退職して司法試験の受験準備に専念しました。退職後は毎日15時間以上を勉強に費やしたそうです。そして2010年に2回目の受験で合格したのです。現在は法律事務所所属の弁護士として活躍しています。

以下には自己啓発に役立つ菊間さんの言葉(要旨)を掲げておきます。


「10年先を考えて生きる」。


「一度決意したら、そのために何が必要かを考えてひたすら頑張る」。


「努力なしに成功なし」。


「あとで悔やむのが嫌なら(冷静に勇気を持って)夢に賭ける」。


「失敗や望まぬ結果になった時には、落ち込むのではなく、考える。冷静に原因分析をし、必要な対策をとり、将来に向けた自己成長の糧にする」。


「自分の生き方を定め、ぶれない自分を育んでいく」。




【引用・参考資料】

『PHP Business THE21』 (2015年3月号) pp.22-23.




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032: 97歳で放送大学を卒業した男性

札幌市在住の加藤栄(さかえ)さんは旧制の高等小学校を卒業後、農業団体に就職し、定年後は中小企業診断士として80歳まで仕事を続けました。

82歳の時に「若い頃できなかった勉強をしたい」と放送大学の授業を受け始め少しずつ単位を取得、91歳の時に学位がとれるコースに入学して経済学などを学び95歳で卒業しました。

ところが加藤さんはその後も勉強を続けようと歴史などを学ぶ別のコースに入学。昨年の9月に二つ目の学位を取得して今月21日に東京で行われた卒業式に出席しました。97歳になっていました。

話はさらに続きます。加藤さんは昨年の10月、高齢者福祉などを学ぶために3度目の入学をしていたのです。自宅でも受講は可能なのですが、北海道大学内の放送大学学習センターにバスと電車を乗り継いで通い、講義を受けたり授業のビデオを視聴したりしています。加藤さんは「100歳まで学び続けたい」と話しているそうです。


【引用・参考資料】

(1)YOMIURI ONLINE (2015/03/26).
(2)釼地邦秀(2016年) 『定年後の目標とライフプラン』(Kindle版) 自己啓発支援センター.

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031: 心機一転、公私ともに前向きに取り組み始めた女性

大手機械部品メーカーのコーポレート経営本部で働くKさん(30歳)の体験談です

Kさんは経営企画本部でインドの子会社の経営状況をチェックするする仕事を担当していました。海外出張もこなし、それなりにやり甲斐を感じていましたが残業が多く週末も仕事で頭がいっぱい、不眠や肌荒れにも悩んでいたそうです。

そんなときに会社の創立100周年記念事業のプロジェクトが組まれることになりました。このプロジェクトは今後の会社の姿をどう社内外に発信するかを決めるもの。Kさんは「プロジェクトマネジメントや企画の仕事は未経験なのでやってみたい」と上司に志願したのです。その結果、多数の応募者の中から選抜され、コーポレート経営本部に異動、専任のプロジェクトメンバーになりました。


Kさんは次のように述べています(要旨)。


「この仕事に携わるようになって、自分の考えを発信することが好きになりました」。


「30歳になったのを契機に私生活も見直し、ヨガと山登りを始めました。ヨガは週一でレッスンを、登山は気候の良い時には月に一回ほど行っています」。


「残業が少なくなったので外食中心であった食生活も見直し、野菜を充分に取る自炊に切り替えました。その結果、体調が良くなり肌の調子も目に見えて改善しました」。


「就寝前には15分間ヨガをして、将来のことを考えるようになりました。いずれは海外で仕事をしたいという夢も明確になり、毎日を前向きに過ごしています」。


「迷ったらまずやってみる。新しい挑戦をすることで、自分が苦手だったことも克服でき、自信につながると実感しています」。



*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Kさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2015年2月号) p.23.




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030: 日本航空社長・植木義晴氏の自己啓発歴

1952年・京都府生まれの植木氏は1975年に航空大学校を卒業して日本航空に入社しました。その後、35年に亘るパイロット生活を経て2008年にJALグループの(株)ジェイエア副社長、2010年には日本航空専務執行役員となり、2012年に日本航空(株)・代表取締役社長に就任しました。


植木氏は「職業人としてのパイロットになるという明確な目標を持っていたので、興味の対象かどうかにかかわらず、必要なスキルや知識を身につけるための努力を続けることができた」(要旨)と語っています。明確な目標を持つことの大切さを再認識させる言葉だと思います。


「努力したぶんだけ、フライトのたびに自分の成長が実感できるのです。すると面白くなって、さらに努力する。こうして私はパイロットの仕事がどんどん楽しくなりました」(要旨)。努力したぶんだけ成長が実感できる、というところに着目したいと思います。努力が無ければ成長も実感できないのです。氏は「休日でも自分の部屋にこもってフライトのシミュレーションをしていた」(要旨)といいます。


そして、次のように続けています。「19歳で飛行機に乗り始め、機長になったのは41歳。22年間に亘って努力を続けたことになります。それは仕事が好きだったから出来たのです。仮に最初は好きでなかったとしても、明確な目標に向けて努力すれば成果が出て、仕事は楽しくなるはず。仕事は『好きになった者が勝ち』なのです」(要旨)。


「トップになったからには、果たすべき使命があるし、社長として恥ずかしくないだけの努力をしたい」(要旨)と現在の心境を語っています。


【引用・参考資料】

(1)『PHP Business THE21』 (2015年3月号) pp.14-15.
(2)
IMG_0118.JPG 釼地邦秀 『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社 (2013年). ▶[内容紹介]へ



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029: 萩本欽一さんが大学に入学

タレントの萩本欽一さんが駒澤大学仏教学部の社会人入試に合格しました。4月からは仕事を続けながら通学するそうです。英語を中心に猛勉強をした萩本さんは英語・小論文・面接の試験をへて合格しました。「認知症対策のつもりで勉強したが、合格できてびっくりするくらいうれしい。一日も休まず通いたい。野球部にも入部したい」と語ったとのこと。ちなみに萩本さんは73歳です。


【引用・参考資料】

日本経済新聞(2015年2月28日).



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028: スーパーの社員から警察官になり、警視庁捜査1課長に就任した男性

2015年2月16日付けで警視庁捜査1課長に就任するのは釣(つり)宏志氏。大手スーパー・ダイエーの社員から警察官転身し、鑑識課長を経て捜査1課長に就任することになりました。

ダイエーではやりがいを感じていましたが、しだいに「見返りを求めず人のために尽くしたい」と思うようになったそうです。そんな折り、警察官として地域住民のために黙々と働いていた義父の影響を受け警視庁の扉をたたいたのでした。

ダイエー時代には「販売戦略を始めとして、工夫し続けることの大切さを培った」とのことで、鑑識課長時代には警察犬の名刺を作成し防犯イベントなどで家族連れに配布、好評を得たこともありました。

「様々な仕事の経験を生かし、各部署との連携を大事にして迅速な事件解決を目指す」と抱負を語っています。


【引用・参考資料】

日本経済新聞(2015年2月14日).



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027: 本田宗一郎の夢

本田宗一郎は1906年、現在の天竜市に生まれました。父は鍛冶屋で、生活は苦しかったようです。宗一郎は幼い頃から機械やエンジンに興味を持っており、精米所の発動機の音や石油の臭いも大好きでした。そんな彼は22歳で独立、浜松で自動車修理工として成功したのです。戦後は本田技術研究所を創業し、1948年には本田技研工業を創業して社長に就任しました。オートバイ「ドリーム号」・「スーパーカブ号」などをヒットさせた同社は二輪車で世界のトップメーカーになりました。その後は皆さんが御承知のとおり、世界的な自動車メーカーとなりました。本田宗一郎は1973年に社長を退陣、1991年に84歳でその一生を終えました。1952年(46歳の時)には小型エンジンの発明で藍綬褒章を受けています。以下は本田宗一郎のエピソードです。自己啓発の観点から読んでみて下さい。

■「小学校2,3年の頃、村に自動車が来たという話を耳にし、すっ飛んで見に行った。村の狭い道をノロノロ走っている自動車の後を追いかけた。感激の一語だった。そして、自分もいつか自動車を作ってみたいと思った」(要旨)。p.17.

■「同じ頃、約20キロほど離れた浜松の歩兵連隊に飛行機が来て飛んでみせるという話を聞いた。飛行機の実物は見たことがない。なんとしてもこの目で見たい。父親の自転車を持ち出し、三角乗りでペダルを踏み続けた。しかし、練兵場には塀が張りめぐらされており、しかも入場料を取っていた。払えるわけがない。松の木に登ってやっと見ることが出来た」(要旨)。pp.17-19.

■「雇っている工員も50人ほどになった28歳のころ、ピストンリングの製造に取りかかったが、どうにもこうにも上手くいかない。自分に鋳物の基礎知識が欠けているからだと気づき、伝(つて)を頼って浜松高工(現在の静岡大学工学部)の聴講生にしてもらった。しかし、話を聞いてもメモを取らず、試験の日には休んで受けなかった。その結果、2年たったある日に退学を言い渡されてしまった」(要旨)。pp.46-49.

■「にもかかわらず、その後も自分の好きな講義は聞きに行った。月謝も払わなくて済んだ。この時の勉強がのちのち大いに役立ち、物を考える時や技術上の疑問点を問いただす時の基礎となった」(要旨)。p.50.

■「寝ていても、いいデザインが頭に浮かぶと、どんな深夜でも、『すぐ紙と鉛筆を持ってこい』と女房にどなる」(要旨)。p.74.

■「私はずいぶん無鉄砲な生き方をしてきたが、私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である」(要旨)。p.104.

■「二輪車だけでなく四輪車や飛行機*の開発など、私の将来への夢は尽きない」(要旨)。p.104.

 *ホンダは開発中のビジネスジェット機「ホンダジェット」の日本における初飛行を2015年4月に予定している。(日本経済新聞:2015, 2, 14)。




【引用・参考資料】

(1)本田宗一郎(2006年/初版:2001年) 『本田宗一郎 夢を力に』 日本経済新聞社.
(2)
yaruki_hyousi.jpg 釼地邦秀(2016年) 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』 自己啓発支援センター. ▶[内容紹介]へ
(3)
IMG_0118.JPG 釼地邦秀(2013年) 『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社. ▶[内容紹介]へ



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026: 社会保険労務士の資格をとって転職に成功した女性

制作会社に勤務していたMさんは30代に入り、「働き方を変えたい」と考えるようになっていました。その頃に知ったのが「社会保険労務士」の資格だったのです。そして、平日は仕事、土日は資格学校という生活が始まりました。さらには、1年だけ1人暮らしで生活できる分のお金を貯めて仕事を辞めたのです。「これで合格できなかったら、この1年間で何やっていたの? と思われてしまうし、再就職にも響くから、絶対に合格しなければいけない!」と思ったそうです。

資格学校時代は、朝から図書館やファミレス、カフェなどで勉強。夜は社会人向けクラスに参加して授業を受けました。とくに「過去問」には徹底して取り組んだとのこと。かくして社会保険労務士の試験に一発で合格、総務の仕事での再就職も決定しました。

その後、Mさんはキャリコンサルタントの資格も取得し、「将来はこの2つの資格を生かして、働く人のサポートをしたい」と夢を膨らませています。



*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Mさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2014年11月6日発行) p.90.



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025: 杉原輝雄はどのようにしてプロゴルファーになったか

ゴルフをやる人で杉原を知らない方はいないと思います。1937年生まれ、大阪府茨木市出身、1957年にプロ入りし、1962年に日本オープンで初優勝しました。「約50年に渡って現役を続行してきた存在感の大きさから、日本プロゴルフ界のドンと呼ばれました。また、練習量の多さはゴルフ界では有名であり、杉原の練習熱心な姿を見て育った関西出身のプロゴルファーも少なくありません」(ウィキペディア)。1997年に前立腺癌が発覚した後も生涯現役を目指したプロですが、2011年12月に亡くなりました。ここでは杉原がどのようにしてプロゴルファーになったか、その経緯を紹介します。自己啓発の観点からお読み下さい。

・貧しかった子供時代。生家は茨木で農家をしていました。しかし田畑は借地、住まいも借家でした。男3人兄弟の末っ子。2間の狭い家に家族5人、兄が結婚してからは6人で暮らしていました。家には井戸も無くもらい水、下着もつぎはぎだらけの生活でした。貧しい生活を辛いと思ったことはなかったけれど、子供心に「お金があればあれば何でもできる」とは思っていたそうです。「お金があれば何でもできるということはないのだけれど、当時はそう思っていた」と語っています。(pp.8-9)。

・子供の頃は目立たない、極々平凡で、恥ずかしがり屋の子供でした。運動も特別好きではなかったと言います。ただし、メンコで負けたりすると悔しくて、随分と負けない工夫をしたそうです。どちらかといえば、負けず嫌い。でも、気は強くない、そんな性格でした。(pp.10-11)。

・小学校時代には小遣いを貰ったことがなく、5年生の時から家の近くの茨木カンツリー倶楽部で小遣い稼ぎのキャディを始めました。土曜の午後と日曜だけのアルバイトです。キャディといってもバッグを担いで客について行くだけ。芝目を見るわけではないし、残りの距離を測るわけでもありません。(pp.12-14)。

・このアルバイトは中学生になっても続けていたので学力がつかず、また家の経済事情もあったので、進学はしないで就職すると決めていました。なによりも、お金をたくさん稼ぎたいという気持ちが強かったのです。自作クラブでのゴルフ遊びにも興味が深まっていきました。(p.14)。

・かくして、就職が決まっていた会社を断ってキャディの道に入ったのです。すでにプロゴルファーへの夢が芽生えていました。また、中卒の初任給は4,000円と聞いていましたが、茨木のプロの給料は30,000円と伝え聞いていました。それは魅力的でした。(pp.16-17)。

・当時のキャディは日雇いで正規の従業員ではありません。就職や進学をした同級生にも引け目を感じていました。新聞を見ても分からない字がたくさんありました。そこで定時制に通うようになったのです。地元、茨木の春日が丘高校でした。そして、それを機に従業員になりました。希望した仕事は洗濯係。当時のキャディはゴルフをさせてもらえなかったからです。事務員は終業後に練習場を使え、休みの時にはコースを回ることもできました。洗濯係もそれに準じた待遇を受けられたのです。(pp.17-18)。

・洗濯係になってから3年後、18歳の頃に茨木カントリー(ママ)に「プロ養成制度」が出来ました。内気な性格を自分自身で励ましてキャディマスターに頼みました。3度目か4度目の申し入れで、やっと養成生になれたのです。(pp.18-19)。

・彼は次のように語っています。「人生には、その時その時で決断を下し、やらなければいけないことがある。心に思っているだけでは何も始まらない。やりたいと思ったことは明日ではなく今やる。やらないで後に後悔するなんて、人生においてそれほどもったいないことはない」(p.19)。


【引用・参考資料】

(1) 杉原輝雄(2011年) 『杉原輝雄 魂の言葉』 日本文芸社。
(2)
yaruki_hyousi.jpg 釼地邦秀 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター (2016年)。▶[内容紹介]へ
(3)
IMG_0118.JPG 釼地邦秀 『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社 (2013年)。▶[内容紹介]へ


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024: 日商簿記3級の不合格をバネにして2級に合格した女性経理担当者

建設会社の経理担当として働いているOさん(女性)は独学で日商簿記の3級に初挑戦したのですが、結果は「不合格」でした。負けず嫌いの彼女はすぐに資格学校に通い始め、再度の受験で合格しました。そして新たな目標にしたのが2級だったのです。週2回の資格学校通学と終業後の会社での独学を半年間ほど続けました。社長には「合格したら資格手当を付けて下さい」と直訴してやる気をキープしたそうです。さらには、自分自身の理解度を客観的に捉えるため受験勉強の進捗状況を日記帳に記録しました。その結果、日商簿記2級に合格。Oさんは「約束通り、資格手当を付けてもらい、仕事への理解も深まりました」と語っています。


*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Oさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN 別冊』 (2014年11月6日発行) p.89.




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023: 資格を活かして活躍の場を広げた女性

半導体の製造装置メーカーで貿易事務を担当しているHさんは複数の資格を取得して活躍の場を広げました。

・後輩の指導が上手く出来ず悔しい思いをしたのが切っ掛けで「貿易実務検定B級」を取得しました。
・貿易事務には英語力が必須。大学時代から定期的に受験していたTOEICでは800点を獲得。
・その後、貿易実務検定の情報サイトを開設したところ、それが出版社の目に留まり、輸出管理と貿易英語に関する本2冊を出版しました。
・その他、「簿記検定2級」と「秘書検定2級」の資格も取得済みです。

Hさんは次のように語っています。「仕事がら残業が多いので出勤前の早朝や移動時間を有効に活用しました。原稿料(印税)を受け取ったときは資格の重みを感じました。今後のキャリアを考える上で貴重な体験になりました」(要旨)。


*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Hさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2014年11月6日発行) p.81.




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022: 目標を毎月手帳に書いて自己動機づけをしている女性

観光情報サイトの運営や情報誌制作を行っている沖縄県の会社で人事を担当している女性Aさんの方法です。年初に設定する目標には、数年がかりの大きな夢もあれば、すぐにできそうな小さな目標や、「毎月1回3,000円のランチ」などの御褒美目標も設定するとのこと。そのやり方で、難しいといわれたセミナーの企画を実現し、「泡盛の女王」に選ばれ、パーソナルカラーアナリストの資格も取得しました。Aさんは、「年初に立てた目標を毎月手帳に記入するほか、周りの人に伝えることで協力を得やすくなる。達成を繰り返すことで自信がつき、常に変化する自分でいられるんです。毎月手帳に目標を書き出すことが継続の秘訣です」と語っています。

*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Aさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2015年2月号) p.21.




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021: 仕事の中でも自己啓発は出来る(男性の事例)

このサイトでは「自己啓発」を次のように定義しています。「自己啓発とは、自分の意思により、さらに成熟した自己を目指すこと」。したがって、「仕事の中でも自己啓発は出来る」ということになります。今回は二人の方を紹介します。

■1人目は三井化学社長の淡輪 敏(たんのわ・つとむ)氏。1989年、工業薬品事業部営業一部で花形の化学品「フェノール」の販売課長に抜擢されました。人事畑から営業最前線への異動は珍しかったそうです。

当時は人事畑や営業畑などの出身母体の色が付くと、他部門へは異動が難しかったのですが、会社を深く理解したいと考えて上司に掛け合ったのです。

淡輪氏は、「自ら頼んだこととはいえ、いきなり主力分野を任せてもらえたことには驚きました」と語っています。


■2人目は作家の出久根 達郎(でくね・たつろう)さん。1959年に集団就職で上京し、月島の古書店・文雅堂書店に就職したのですが、その頃の自己啓発の一端です。

・お客さんに対応するため、随分と本を読んだそうです。

・お客さんの話からも多くを学んだといいます。

・17歳の頃に友人と同人誌「巡禮(じゅんれい)」を発行。

・作家の井伏鱒二にも会いに行きました。依頼の電話をしたところ奥さんが取り次いで下さったとのことです

・司馬遼太郎の『龍馬がゆく』に圧倒されたのが切っ掛けで剣道も習い始めました。龍馬が学んだ北辰一刀流の道場でした。居合いは初段までいったそうです。

出久根さんは「古書店と道場は私の青春です」と語っています。


【引用・参考資料】

日本経済新聞 (2015年1月6日号および2015年1月7日号).



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020: 独学で建築を学んだ安藤忠雄

独学で建築家となり文化勲章も受章した安藤さんの自己啓発歴、その一部を紹介します。

・中学2年の時に自宅の改造があり、一心不乱に働く若い大工を見て建築という仕事に興味を持った。高校時代には大学の建築科に進みたいと思っていたが家庭の経済的な理由と自分の学力の問題から、進学は諦めざるを得なかった。(pp.17-18, 36-39).

・そこで、働きながら勉強しようと決心し、独学で建築の勉強を始めた。大学の建築科に進んだ友人に教科書を買ってもらい、彼らが4年間かけて学ぶ量を1年で読もうと無我夢中で取り組んだ。朝起きてから寝るまで、ひたすら本に向かった。1年間は一歩も外に出ないくらいの覚悟で本を読むと決めて、やり遂げた。(pp.36-39).

・そして1年が過ぎ、今度は建築はもちろん、デッサン、グラフィックデザイン、インテリアなど建築におよそ関係のありそうなことは手あたりしだいに通信教育で学んだ。とにかく建築で食べていきたい。必死だった。昼はアルバイト、夜は通信教育の毎日を過ごした。(pp.36-39).

・20代の初にはアルバイトとはいえ、住宅の設計にも取り組むようになっていた。しかし、ある依頼者から「あなたは1級建築士ですか」と尋ねられて資格の必要性に気づく。当時は2級建築士の資格さえ持っていなかった。(pp.56-57).

・資格を取るための勉強をしようにも、昼間の仕事から帰ると体はもうくたくたで勉強にならない。そこで、朝、仕事場に行く前にパンを2つ買っておき、昼飯の時間になると、それをかじりながら建築の専門書を読んだ。(pp.56-57).

・かくして2級建築士の試験に合格。その3年後には1級建築士の試験にも合格した。「石の上にも3年」の気迫で頑張りとおした結果の一発合格であった。(pp.56-57).

・その後は日本経済の急成長を背景にして本格的に建築家への道を歩み出したのである。(pp.56-59).


【引用・参考資料】

(1) 安藤忠雄(2012年) 『仕事をつくる ~私の履歴書~』 日本経済新聞出版社。
(2)
yaruki_hyousi.jpg 釼地邦秀 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター (2016年)。▶[内容紹介]へ
(3)
IMG_0118.JPG 釼地邦秀 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター (2016年)。▶[内容紹介]へ



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019: 仕事の中で自己啓発をして独立自営を果たした女性

企業でロールモデルとなる女性の育成を手がけている「プラスカラー」の代表、佐久間映里さんの紹介です。佐久間さんは大学卒業後に情報関連企業に就職して営業を担当しました。「飛び込み営業で名刺交換100枚のノルマを課せられた時にはトライ&エラーの中から成功の秘訣を編み出した」と語っています。そして新人教育を任された時には、出来ない人の気持ちを理解することが不得手な自分に気づき、コミュニケーション能力を高めるための営業研修を積極的に受けました。その後、結婚して、IT関連企業に転職。営業担当となったものの思ったような成果を出せず「夫のアドバイスに助けられ、広告関連の本を読みまくって猛勉強」をしたそうです。2つの会社で営業・新人教育・人事・広報の仕事を経験した結果、「自分としてはやるべきことはすべてやった」という充実感を持ったと言います。

「プラスカラー」の起業を決意したのは29歳の頃でした。ストレスで体調不良になったこと、子供が出来た後のことも考えて、勤めていたIT関連企業を退職、「プラスカラー」を立ち上げたのです。学生時代にソフトテニスで体力と負けん気を培ったこともプラスになっているようです。現在は、これまでの経験を活かし、「企業でロールモデルとなる女性の育成」に力を入れた事業運営をしています。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2014年11月6日発行) p.20.


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018: ボロボロの英和辞書 ~銀行マンから証券会社の社長になった男性~

日経新聞の「こころの玉手箱」というコラムから、ゴールドマン・サックス証券社長・持田昌典さんの紹介です。

持田さんは大学を卒業するまで英語を一言も話せなかったそうです。しかし大学を卒業し第一勧業銀行に入ると英語の勉強をゼロから始めました。支店長に「英語を勉強したいので週に1日だけ早く帰りたい」と願い出て職場に近い英会話学校に自費で通学、[I have a pen]からやり直したそうです。もちろん仕事には全力で取り組みました。そして支店での4年間の頑張りが認められて四谷の日米会話学院での研修が始まりました。3ヶ月間にわたる英語漬けの研修です。研修を終えてからは日比谷支店に異動。今度は週に1回、朝6時から支店近くの英会話スクールに通いました。かくして、海外派遣の社費留学生を選ぶ社内試験に合格、仕事ぶりも評価されて、米ペンシルベニア大学ウォートン校に入学しました。その留学が切っ掛けとなりゴールドマン・サックスに入社したのです。持田さんは、「今も会社の机の横に置いてあるボロボロの英語の辞書は、社会人になってから買ったものだ」と記しています。


【引用・参考資料】

日本経済新聞 (2014年11月17日).


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017: 全盲の男性弁護士

今回は全盲の弁護士、大胡田誠(おおこだ・まこと)さんの紹介です。

大胡田さんは1977年の生まれ、先天性の緑内障により12歳で失明しました。筑波大学付属盲学校(中等部・高等部)、慶應義塾大学法学部、同大学法科大学院へと進み、8年に及ぶ苦学の末に2006年、司法試験に合格しました。日本で3人目となる全盲の弁護士が誕生したのです。司法試験にチャレンジすること5回目の合格でした。大胡田(2014)から、その一部を紹介します。

・小学校6年になった頃、視力はほとんど失われ、濃い霧の世界に入った。一番つらかったのは昼休みの時間、一人でポツンと教室の席に座り、ただただ時が過ぎるのを待っていた。

・中学2年の時に、学校の図書館で『ぶつかって、ぶつかって』という本に出会った。日本で初めての全盲弁護士・竹下義樹さんが書いた手記である。そしてその本から、「視覚障がいがあっても、諦めさえしなければ健常者と肩を並べて生きていくことができる」ことを学び、弁護士になることを決心した。

・ボランティアによる点訳支援を受けながら予備校に通い大学受験に備えるも複数の大学から受験拒否、その悔しさをバネにしてさらに勉強、一浪で慶応の法学部に入学した。補欠の繰り上げ合格であった。

・大学2年生の時に司法試験のための勉強を開始。いくつかの予備校に断られたが「伊藤塾」が受け入れてくれた。

・初めて司法試験を受けたのは大学4年の時、「結果は、惨憺たるものだった」。点字の試験問題を読み切ることすら出来ず絶望感に襲われたが、何とか立ち直り沼津の実家で浪人生活に入る。しかし、平日の昼間、実家に一人でいると、自分だけが世界から取り残されたように感じたという。

・そして4回目の受験、これも失敗。「もう辞めるべきかもしれない」と悲壮な覚悟を口にした。「心が折れかけていた」。

・このままでは埒があかないと思い再び上京、努力を重ねて慶応の法科大学院に入学する。

・そして、5回目の受験の合格発表日、取り乱すのを見られるのが嫌なので、今回の発表も一人で来て係の人に掲示板を見てもらった。何秒かして、「ありますよ。おめでとうございます」。多少事務的な声であったが、「その言葉で十分だった。こらえていた涙が堰を切ったように溢れ出た」。

・大胡田さんは次のように語っています。「逃げずに、弱さを一度は受け止めて、そして自分を信じることだ。自分を信じる力は、それまで積み上げてきた努力の量に比例する。だから、最後の最後で自分に負けないための努力を日々しなければ、と思う」。



【引用・参考資料】

(1) 大胡田誠(2014年/初版:2012年) 『全盲の僕が弁護士になった理由(わけ) ~あきらめない心の鍛え方~』 日経BP社。
(2) 釼地邦秀 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター (2016年)。

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016: 会社勤めに耐え切れなくなって木工作家に転身した女性

これから紹介するSさんは女性です。大学卒業後、出版社を始めとして複数の会社に勤務しましたが会社勤めの人間関係や分業システムに馴染めずにいました。そして29歳になった時、「純粋に仕事だけしたい」との思いがあって職業訓練校(木工科)に入ったのです。そして木工の面白さにハマりました。1年間の研修期間が終わると、講師であった家具工房のNさんに「弟子にしてほしい、働かせてほしい、無給でもいい」と頼み込み3ヶ月後にやっと許しを得ました。

ところが、働き始めると、無給の約束にもかかわらず師匠は給料を出してくれたのです。申し訳なく思ったSさんは自腹で小物作りに必要な木工旋盤を購入、自作の品を師匠であるNさんの家具工房に展示させてもらうようになりました。木の表面を焦がす「焼きペン」で小さな柄を描いた作品が中心です。展示会を開いたり、雑貨店での委託販売もしています。「現在は、日々、生きている実感がある。1人で作れるもの、普通の人が日常で使う気軽に買えるものを一生作っていきたい」と語っています(要旨)。

*本文ではお二人とも実名で紹介されていますが、ここでは「Sさん」、「Nさん」としました。


【引用・参考資料】

『日経ビジネス[アソシエ]』 (2013年1月号) p.122.


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015: 27歳で介護福祉士の資格を取得して活躍中の女性

現在、Eさんは介護事業を展開する企業でサービス提供責任者として仕事をしています。ITを活用する新しいスタイルの介護事業を展開しているベンチャー企業です。

24歳の時、ユニットケアの老人福祉施設の立ち上げに携わり、27歳の時に介護福祉士の資格を取得しました。その後は様々な現場を体験し、31歳の時には特別養護老人ホームの主任として35人のスタッフをまとめるまでになりましたが、さらなるインプットを図るべく退職。食事療法や心理学を学ぶために各種セミナーに参加し、介護資格学校では初任者研修の非常勤講師も務めました。そして現職。

「暗い、つらい、というイメージのある老人介護の仕事ですが心身ともに成長できる、やりがいのある仕事。もっとポジティブなイメージに変えたい。次の目標はケアマネージャーです」と語っています(要旨)。


*本文では実名で紹介されていますが、ここでは「Eさん」としました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2014年11月6日発行) p.19.


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014: 58歳で総合商社の社員から大学のキャリアセンターに転職、そして特任講師になった男性

法政大学・総長室企画戦略本部・特任講師になったAさんの紹介です。

総合商社に入社してから31年間、Aさんは国内外の第一線で活躍してきましたが、アメリカで起きた同時多発テロの影響で担当していたプロジェクトが頓挫、当時53歳であったAさんの居場所はなくなりました。しかし、本社の人事部でカウンセリングを受けたことが一つの契機となってキャリアカウンセラーを志向するようになったのです。さっそく、CDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)の講座に申し込み、半年あまりで資格をとりました。54歳の時でした。

その後は、新設された社内のキャリアカウンセリング室の一員として勤務していましたが、週に一度、東京から名古屋にある南山大学に通いグループファシリテーション講座を受講するなど、努力も怠りませんでした。そして58歳の時に縁あって帝京大学キャリアサポートセンターに転職したのです。同大では非常勤講師として社会人基礎力養成演習も担当しました。

さらに60歳の時には法政大学キャリアセンターに転職、教員としてキャリアデザイン論の講座も担当し、63歳の時に法政大学・総長室企画戦略本部・特任講師になったのです。

*本文では実名で紹介されていますが、ここでは「Aさん」としました。


【引用・参考資料】

『「会社の仕事」から「社会の志事」へ 新年金時代のココロザシゴト』 (2011年11月30日発行) 日本経済新聞出版社  pp.14-17.

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013: 人生の計画を立てて、残り時間の充実を意識する(男性の事例)

経営コンサルタントであり、株式会社アンテレクトの社長である藤井孝一さんの紹介です。

藤井さんは20代の頃から便宜上80歳で死ぬと仮定して、毎年誕生日の前に人生計画を更新しているそうです。「死ぬまでの道のりを意識せざるを得ないから、書くだけで残りの人生をリアルに実感でき、『無計画で生きていたらいけない』と気づかされる。また、目標は成し遂げるためだけに価値があるのではなく、逆算して1日に落とし込み、その日の生き方を定め充実させるところにも意味がある」と語っています。「逆算して」というところを流し読みにしないよう御注意下さい。とても大切なことです。


【引用・参考資料】

『日経ビジネス[アソシエ]』 (2013年1月号) pp.38-39.




【拙著紹介】

釼地邦秀 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(Kindle版) 自己啓発支援センター。

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釼地邦秀 『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社。

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012: 放送大学を活用した人達(男性および女性の事例)

(1)
Sさん(男性)。勤務先の社長が放送大学の卒業生で、受講を勧められていたのですが、「僕は高卒でのしあがります」と宣言し、入学をしませんでした。しかし執行役員に抜擢されてから大学で経営学を学ぶ必要性に気づき、2007年4月に全科履修生として入学。その後、2013年3月に会社を設立して独立、2014年3月に教養学部(社会と産業コース)を卒業しました。仕事が忙しかったので8年間での卒業を計画していたそうですが、「途中1年間の休学を含めて7年間で卒業した」と語っています。

(2)
Sさん(主婦)。高校卒業後、信販会社に勤務、結婚して退社しました。以前から抱いていた大学卒業の夢をかなえるために2009年10月に全科履修生として入学。それから4年半で卒業に必要な124単位のうち、約半数を修得しました。在籍期間はあと半分ですが、履修する科目数は、一つの学期に放送授業3科目、面接授業2科目ほどのペースで続けているとのことです。

(3)
Yさん(男性)。大学卒業後、システムエンジニアとして就職。ホームヘルパーなどを養成する団体にも勤務し、2012年に仕事から離れました。2009年4月には働きながら選科履修生として入学していたのですが、仕事から離れたあと2013年10月から全科履修生として学んでいます。「単位にこだわらず、好きな科目を好きなだけ。定年後のやりがい探しにも有効」とのことです。


*ホームページでは3人とも実名で紹介されていますが、ここではアルファベットに置き換えました。


【引用・参考資料】

放送大学ホームページ (2014/11/06).

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011: 結婚後に出産で退社、しかし自己啓発で再出発を果たした女性

フリーアナウンサー藪本雅子さんのことです。日本テレビ放送網に入社してバラエティー番組を担当していましたが、自分の居場所を求めてアナウンサーから記者になりました。そして、その記者時代にハンセン病問題に深い関心を持つようになったそうです。その後、結婚・出産で退社しましたが、もう一度仕事をするため、大学院に行ったり、本を書いたりして一から出直したのです。ハンセン病のことも勉強し直して人に話せることが増えました。現在はラジオや講演の仕事をしています。「社会のためにできることはないかと探しながらやっている感じ。今の方が自分らしい。ようやくやりたいことが見えてきたような気がしている」と語っています。

【引用・参考資料】

日本経済新聞(2014年10月26日).

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010: サラリーマンから大学教授へ(男性の事例)

「自分のことなので、事例として紹介するのは気が引ける」との思いから掲載を控えていたのですが、サラリーマンから大学教授を目指す人も増えてきているようです。そこで私の経歴を事例として紹介させて頂きます。ささやかな経験談ですが何かのお役に立てば幸いです。

大学を卒業してすぐにサラリーマンになりました。そして10年ほど勤務したのですが、その間に中小企業診断士の資格を取得しました。退職して経営コンサルタントの道に入ったのが33歳の時、大学院は37歳で受験・合格しました。当時は社会人入試の制度もほとんど無く、20代前半の若者と一緒に一般受験したことを思い出します。その後は、経営コンサルタントと院生を同時並行させながら39歳で修士号を取得。42歳の時に短大の専任講師になり、大学教授への第一歩を歩み始めた次第です。


こうして筆を進めていると思い出すことが多く、記述が長くなりそうなので、この辺で止めておきます。関心のある方は[自己紹介>自己啓発の軌跡]を御覧下さい。 ▶[自己啓発の軌跡]へ



【拙著の紹介】

釼地邦秀(2016年) 『人生目標を見つけて自分のやる気を高めよう』(kindle版) 自己啓発支援センター。

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釼地邦秀(2013年) 『ライフプランから始める本気の自己啓発』 三恵社。

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009: 勉強会に参加する(男性の事例)

勉強会に参加して自己啓発を図っている人も少なくありません。サントリーの次期社長に内定したローソン会長の新浪剛史氏もその一人です。新浪氏が勉強会の必要性を感じたのは三菱商事に入社したての頃でした。社内の勉強会に参加して、自分より忙しいはずの先輩たちが経営に限らず歴史や哲学などにも詳しかったことに刺激を受けたのです。以降、自己啓発の一つの方法として、さまざまな勉強会に参加するようになりました。人脈を広げるうえでも役に立ったと語っています。

大手の通販サイト「ケンコーコム」の社長である後藤玄利氏も勉強会を重視しています。同業かどうかを問わず自分が刺激を受け、自分を高められそうな勉強会やセミナーには積極的に顔を出しているとのことです。



【引用・参考資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2014年9月1日号)  p. 58.




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008: 100冊の本から100通りの人生を体験する(男性の事例)

「自己啓発」と「読書」は切り離すことが出来ませんが、二人のビジネスリーダーの読書観を紹介します。一人目はファミリーマート会長の上田準二氏、「一人の人間が経験できる人生は一つだけです。しかし、100冊の心に残るような本を読めば、100通りの人生にも勝る経験を積むことができる。ビジネスの現場で、経験は強力な武器となります」、と語っています。二人目は前中国大使で伊藤忠会長を務めたこともある丹羽宇一郎氏、「本を読むことは時空間を超えて、自分では体験できない経験をすることである」、と言っています。気になる本に出会ったら(素通りせず)手に取ってみることが大切だと思います




【引用・参考資料】

『PRESIDENT(プレジデント)』 (2014年9月1日号) p. 63.




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007: 定年前から準備した、定年後の社会貢献(男性の事例)

Mさんは60歳で有名化粧品会社を定年退職し福祉サービスの仕事に就きました。横浜市福祉サービス協会に派遣登録して男性ヘルパーとして働き始めたのです。Mさんは在職中から”定年後の社会貢献”を考えていたので、すでに介護ヘルパー2級の資格を取得済みでした。「収入よりも社会貢献をしたかったのでこの道を選んだ。『ありがとう』と感謝されると、それがまた励みになる」と言っています。奥さまや同居の岳母さまにも、いっそうの思いやりをもって接することが出来るようになったそうです。

*本文では実名で紹介されていますが、ここでは「Mさん」と表記しました。



【引用・参考資料】

(1)杉山由美子(2014年) 『定年後 年金プラス、人の役に立つ働き方』 朝日新聞出版.
(2)釼地邦秀(2016年) 『定年後の目標とライフプラン』(Kindle版) 自己啓発支援センター.

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006: 10年で仕事に関した5つの資格を取得した男性

現在、サントリー系の会社で専任課長として品質保証の仕事を担当しているMさん(60歳)は50代で一念発起し品質保証に関する資格取得に取り組み始めました。そして、「危険度分析による衛生管理(HACCP)管理者」など、品質保証に関する資格を10年間で5つ取得しました。Mさんは「50代が最も勉強した。希望の仕事に就かせてもらい感謝している」と語っています。2013年4月にサントリーが定年を65歳に延長したため定年延長の1期生になったのです。おもな業務はグループ各社の品質管理を担う内部監査員の育成です。現在は社員などを対象にしたセミナーの講師を担当するとともに全ビール工場のFSSC22000規格取得に向けた準備に取り組んでいます。

*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Mさん」と表記しました。



【引用・参考資料】

日本経済新聞(2014年5月20日).




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005: 欠番_掲載記事はありません。






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004: 78歳の全盲男性が博士号

学位を取得したのは全盲の森田昭二さん、78歳。2014年3月17日に関西学院大学の学位授与式で博士号(人間福祉)の学位を授与されました。研究テーマは視覚障害者福祉の歴史。近代日本の視覚障害者福祉の基礎をつくった事業家の好本督らについて論じました。森田さんは高校の国語担当の教員として32年間勤務。生まれつき視力が弱く64歳の時に失明しました。しかし、点字の学習や歩行訓練を重ねながら関西学院大の聴講生になり、2005年に大学院に入学したのです。学生ボランティアの支援を受けながらの研究活動でした。森田さんは「78歳になっても積極的に学ぶ自分の姿を通して、いろんな人の刺激になればうれしい。今後も研究を続けていきたい」としています。




【引用・参考資料】

日本経済新聞(2014年3月17日).




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003: 仕事と大学院の受験勉強を両立させた人達(男性および女性の事例)

キャリアアップのために大学院で学び直そうとするビジネスパーソンには仕事と大学院の受験準備を両立させる工夫が必要になります。以下に紹介する人達の工夫は、これから両立を目指そうとしている人達へのヒントになるでしょう。

◎「論文」対策:
社会人向けの大学院入試では一般に論文形式の「研究計画書」が課せられます。たいていの場合、募集要項に課題や書式が指定され、応募者は期日までに執筆し提出することになります。外資系メーカーで営業本部長を務めるAさん(36歳・男性)は現在一橋大学大学院国際企業戦略研究科に学んで2年目です。受験準備の期間は実質3~4ヵ月の短期決戦でしたが、10頁を超える「研究計画書」の作成は練りに練ったと言っています。具体的には次のような取り組みをしたそうです。(1)大学院の研究論文で何を書きたいか、つまり大学院で何を研究したいかについて、現在の仕事にからめながら筋道をたてて説明した。(2)現職を含めたこれまでのキャリアと、大学院での研究と、修了後のキャリア像へのつながりについて、納得してもらえるように説明した。

◎「面接」対策:
面接では、論文試験に相当する研究計画書に基づいた質疑が進められることが多いようです。とくに、「何を研究したいのか」が明確になっていなければなりません。社会人入試では面接が占める比重は大きくなります。十分な準備が必要なのです。Bさん(36歳・女性)は求人情報会社に勤めながら法政大学大学院キャリアデザイン学研究科に入って2年目ですが、自身の面接試験のことを振り返って、「大学院で何をどう研究したいのか。研究計画を明確に伝えることを心掛けた」と言っています。仕事で感じていた疑問点を研究テーマに選んだこともあって面談の受け答えはスムーズに出来ました。仕事を終えて帰宅するのがいつも8時過ぎだったので、受験準備はおもに休日を充てたそうです。

◎「英語」対策:
社会人入試においても英語の試験を課されることがあります。商社勤務のCさん(28歳・男性)は、「飲み会などを断って勉強し続ける覚悟をした」と言っています。そのうえで、出社前の早朝時間帯と片道45分の通勤時間帯をフルに活用し、仕事を続けながらも1日平均4時間の勉強時間を捻出しました。リスニングについては携帯プレーヤーとノイズ除去機能が付いたイヤホンを駆使し、英語能力テストTOEFLでは高得点を実現しました。

*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここではアルファベットに置き換えました。

【引用・参考資料】

日本経済新聞 (2014年1月28日).




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002: やりたい仕事で起業を果たした女性

自分のやりたかった仕事で個人事業主になった女性Mさん(34)の紹介です。Mさんは2013年11月にITベンチャーを退職し、12月にローフードのスクール「アトリエ レジュベ」を開校しました。仕事でストレスの多かった時期、自分自身のために健康維持の方法を探していた時、ローフードと出会ったそうです。そのローフードで自分自身の体調不良を克服できたMさんは、野菜ソムリエ(中級)の資格取得に向けて勉強を開始、1日3時間の勉強をノルマにして1ヶ月半で合格しました。その後、貯蓄を元手に起業。マンションの一室を借りてローフードのスクールを開いたのです。将来的にはレストランを開業したいと考えているそうです。「多くの人にローフードや健康のための食事を知ってほしい」と意欲を燃やしています。そのMさんが心掛けていることは次の3つです。(1)好きな言葉を玄関に置き、毎日やる気を高めている。(2)年末年始と誕生日には、なりたい自分と今の自分との比較を手帳に書いて確認している。(3)起業のきっかけになったビジネス書を読み返している。

*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Mさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2014年2月号) p. 29.




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001: 3つの資格を取得して、やりたい仕事に就いた女性

3つの資格を取得してやりたい仕事に就いたNさん(38)の紹介です。現在、Nさんはリラクの商品開発部長。以前からファッションと人材活用に関心を持っていたNさんは、「その2つの仕事が同時にできるマナー研修や新人研修の仕事に携わりたいと考えました」。そこで、資格に着目したところ「イメージコンサルタント」の資格が浮かび上がってきたので、週末に専門学校に通い毎日計画的に勉強を続け、3ヵ月でその資格を取得しました。さらには「ビジネスマナーインストラクター」と「センスアップアドバイザー」の資格も取り知識を深めたのです。そのうえで、社内的なアピールを始め、社長にも直談判し、商品開発の仕事を続けながら新人教育や人材育成の仕事も担うようになりました。将来的には独立も考えているそうです。

そのNさんが心掛けていることは次の4つです。(1)年初、色紙に”書き初め”をします。今回は「極」と書いて職場に張りました。専門スキルを極めようとの思いからです。(2)TO DOリストを作り効率的に働く。スマホのリマインダーアプリを使っています。(3)女性起業家の集まりに参加する。いろいろな刺激を受けるので自己動機づけになります。(4)40歳までのプランを考え、具体的な目標を手帳に書いてあります。

*出所となっている記事には氏名が明記されていますが、ここでは「Nさん」と表記しました。


【引用・参考資料】

『日経WOMAN』 (2014年2月号)  p. 28.




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【付記】 「自己啓発」の意味

このサイトでは、「自己啓発とは、自分の意思により、さらに成熟した自己を目指すこと」と定義しています。まず「自分の意思であること」が必須の要件です。自己啓発は「自己」の「啓発」ということですから主体が自分にあるのは当然でしょう。次には「成熟」という言葉の意味ですが、それは「身心の成長」を意味します。「身」とは体(からだ)のことであり、「心」は知識・感情・意思の総体です。したがって、自分の意思で、自分の体と知識・感情・意思をいっそう成長させていくことであるならば、すべて自己啓発と考えます。

一般に「趣味」と言われたり、あるいは「仕事」と言われたりすることでも、自分の意思で、自分の体と知識・感情・意思をいっそう成長させていくためである(と本人が自覚する)ならば、それらは「自己啓発」と考えます。たとえば、たんなる時間つぶしではなく自分の感性を磨くために自らの意思で入会した絵画教室での学習は自己啓発になります。また、仕事で使う英会話の勉強でも、それが自分の意思であり自分の成長を自覚したものであれば自己啓発になります。同様に、担当業務についての自主的な業務改善、さらには新規プロジェクト・未経験の職場や海外支店への配転希望でも、「さらに成熟した自己を目指す意思」があれば自己啓発と考えます。ですから、会社は「賃金支払いの対象になっている勤務時間内に費用会社負担で取り組める自己啓発の場」といえるかもしれません。改めてその活用を検討してみる価値はありそうです。

なお、たんなる趣味と考えるべきか自己啓発と考えるべきか、あるいは業務命令による仕事と考えるべきか自己啓発と考えるべきか、迷うことがあると思います。両者が混じり合った状態になるケースです。この場合、統一的な判断基準はありません。自己啓発として位置づけるか否かは自分自身で判断することになります。なぜならば、「さらに成熟した自己を目指す意思」の有無は本人にしか分からないからです。仕事としての意識が6割・自己啓発としての意識が4割、といったように比率でとらえる方法もあると思います。


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【付記】 自己啓発事例の活用法

「事例」というものは各人が各様に活用すれば良いのですが、どうしても気になることがあるので付記しておきます。「釈迦に説法」となるかもしれませんがお許し下さい。

自分にピッタリの事例は滅多にありません。「事例」からは”ヒント”や”切っ掛け”を探すようにしましょう

自分は女性だから男性の事例は読まない(自分は男性だから女性の事例は読まない)、自分は若いから年配者の事例は読まない、(自分は年配者だから若者の事例は読まない)、自分には学歴が無いから高学歴の人の事例は読まない、自分は健常者なので障害者の事例は読まない、古い事例は読まない、などなど。このような取り組み方はしない方が良いと思うのです

人はそれぞれに個性を持っています。また、それぞれの人は異なった事情を抱え、異なった状況に置かれています。百人百様なのです。また、時代は刻々と変化していきます。したがって、”自分にピッタリの事例”ばかり求めていると、「自分に役立つ事例は無い」ということになってしまいます。

「事例」からは”ヒント”や”切っ掛け”を探すようにしましょう。そして、自分に合った自己啓発の方法を自分で創り出して下さい



【参考資料】

自薦で恐縮ですが、拙著『自己啓発の事例と自己啓発の進め方』も御覧ください。

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自己啓発百科:目次


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自己啓発の事例紹介

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このページでは自己啓発のさまざまな事例を紹介します。あなたの取り組み意欲を高める切っ掛けが見つかることを願っています。



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自己啓発の周辺

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文字どおり、自己啓発の周辺情報を広く紹介していきたいと思います。



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私の杖ことば

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私を支えてくれる言葉、励ましてくれる言葉、癒やしてくれる言葉を紹介します。あなたの置かれている状況にフィットした言葉が見つかりますように☆



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やる気のスタートボタン

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「ちょっとした切っ掛け」を活用して「やる気」を回復させる方法を紹介します。すべて私が使ってきた方法です。その時々の自分の状況に応じて取捨選択しながら活用して下さい。あなたに合ったスタートボタンが見つかりますように☆


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自己啓発に役立つシート集

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このページでは自己啓発に役立つ、さまざまなシートを提供します。いわゆる「チェックシート」・「ワークシート」・「フォーム(テンプレート)」といった形式の資料提供です。さらには、自己啓発に役立つ用語の解説も「解説シート」という名称で提供します。


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努力の仕方 

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何ごとにも努力は大切ですが、努力をするにあたっては数多くのコツがあります。このページでは「努力の仕方」と題して、さまざまなヒントを紹介します。


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